シュラクサイ勝利
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/04 04:52 UTC 版)
9月13日、アテナイ軍は傷病兵を残し、遺体を埋葬もせず、野営地を出発した。生存者は非戦闘員も含めて40,000であり、いくらかの傷病者も行けるところまで這うように追っていった。脱出の途中で、アナパス川(en)を守っていた小規模なシュラクサイ軍に勝利したが、シュラクサイ軍騎兵と軽歩兵が嫌がらせ攻撃を続けた。エリネウス川近くでデモステネスとニキアスは別れたが、デモステネスはシュラクサイ軍に攻撃されて兵6,000と共に降伏した。残りの兵はニキアスと共にアシナルス川(en)に向かったが、川が近づくと兵士は飲み水にありつこうと急ぎ、大混乱が生じた。あるものは踏みつけられて圧死し、また兵士同士での喧嘩も生じた。川の対岸ではシュラクサイ兵が待ち構えており、アテナイ兵はほとんど虐殺されてしまった。死者の数の点では、この遠征で最大の敗北であった。ニキアスは紀元前421年の平和条約において彼が果たした役割をスパルタが覚えていることを期待して、個人的にギリッポスに降伏した。少数の兵のみがカタナにたどり着くことができた。 捕虜の数は7,000に達し、シュラクサイ近郊の石切り場に送られた。このような多人数を収容できる場所が他になかったのである。ギリッポスの命令に反して、デモステネスとニキアスは処刑された。残りは劣悪な環境で10週間を過ごし、アテナイ人以外は奴隷として売られた。アテナイ人は石切り場にとどめおかれ、疾病か飢餓で徐々に死んでいった。ほんの少数の生存者のみがアテナイにたどり着き、この悲劇の報告をもたらした。
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