シャーのクーデタとタブリーズ攻囲戦
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「イラン立憲革命」の記事における「シャーのクーデタとタブリーズ攻囲戦」の解説
1907年、モハンマド・アリーがシャーに即位したが、モハンマド・アリーは皇太子時代から立憲革命に対しては強硬に反対の立場を採っていた。そのさなか、議会は立憲体制の具体的な内容をめぐって、亀裂が生じた。その亀裂とは、西欧的な改革を目指す知識人とイスラームの伝統的な知的体型を核に改革を目指すウラマー層の間の亀裂であった。 イランをめぐる国際情勢も大きな変化を迎えていた。1907年8月31日、イギリスとロシアの間で英露協商が締結され、イラン国土における勢力圏が確定した。また、モハンマド・アリーの信頼を得ていた大宰相アミーノッソルターン(ペルシア語版)(ペルシア語: امینالسلطان)ことMirza Ali Asghar Khan Amin al-Sultan(ペルシア語: علیاصغر اتابک)が暗殺された。1908年になると、テヘラン、タブリーズ、エスファハーンなどの諸都市で立憲はと反立憲派の武力衝突が頻繁に起きた。また、モハンマド・アリー暗殺未遂事件も発生した。モハンマド・アリーは、6月11日、戒厳令を発布し、各地のアンジョマンの弾圧に着手した。 シャーのクーデタは、一時的に立憲派の勢力の弱体化に成功した。しかし、地方で成長したアンジョマンは、モハンマド・シャーの政策運営に対して、武装闘争が組織された。その中でも、最も強力なアンジョマンはイランとロシアの接点であり続けたタブリーズであった。タブリーズのアンジョマンは第一議会において、立憲派の拠点組織へと成長し、大商人による小麦の退蔵の禁止、肉・パンといった日常必需品の価格高騰の統制、度量衡の統一、タブリーズの警察業務と裁判業務を管掌していた。確かに、タブリーズのアンジョマンは、シャーのクーデタによって大打撃を受けたが、カフカス地方の社会民主党や社会主義者と密接な関係を持っており、社会民主党の指導の下、商人、職人、中・下級ウラマー、任侠・無頼の徒など、約2万人の義勇兵組織が結成され、シャーが派遣した部隊が敢行したタブリーズ攻囲戦を戦い抜いた。タブリーズ攻囲戦の結果、イラン全域で立憲派の蜂起が敢行されるようになった。
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