コールスニの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/07 04:46 UTC 版)
「フメリニツキーの乱」の記事における「コールスニの戦い」の解説
詳細は「コールスニの戦い」を参照 初勝利を収めたコサック・タタール同盟軍は直ちに北上し、5月25日にコールスニ町辺りの官軍の本陣を包囲した。司令官であるポトツキとカリノフスキは包囲脱出を図ったが、その計画は現地のスパイによってコサックの陣地へ知らされ、コサックは官軍の脱出経路に罠を仕掛けた。翌日、官軍はコサック・タタール同盟軍の強い抵抗を受けることなく脱出し、途中でのホリーホヴァ・ディブローヴァの峡谷に入ると、真正面と側面からコサックの猛烈な射撃と、背面からタタールの騎兵隊の打撃を受けて総崩れとなった。官軍の8割が戦死し、負傷した両人の司令官を初めとする軍人はタタール人の捕虜となってクリミア・ハン国へ送られた。 このコサック・タタール同盟軍の大勝利によってウクライナでは政府の軍が消滅し、治安が悪化した。それと同時に、貴族、聖職者やユダヤ人などの支配者階級から弾圧と軽蔑を受け続けたウクライナの農民や町人が蜂起し、宮殿や寺院を略奪して従来の主君、長官や管理者などを殺害しはじめた。庶民軍を率いたのはフメリニツキーの部下、マクスィム・クルィヴォニース連隊長であった。こうした暴動に、東ウクライナの領主でウクライナ系貴族のヤレーマ・ヴィシュネヴェーツィクィイ公が立ち向かった。彼は、反乱を征することに熱心に努めたが、無差別に数多くの町村を焼き払って無罪の住民まで処刑したので、政府と支配者に歯向かう庶民の数を増加させていったばかりであった。
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