コロンボ以後
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コロンボは、若手を積極的に登用し、ジョニー・オッドら古参幹部を引退に追いやるなど組織の若返りを進めた。ギャロ抗争で亀裂が入った組織の立て直しを図り、ギャロ派と和解してその組織復帰を容認した。 1970年代初め、イタリア系アメリカ人の権利擁護を訴え市民運動を展開した。コロンバスサークルに5万人を動員して行進し、タイムマガジンの表紙を飾りテレビのインタビューに出演した。また公然とFBIを批判し、FBIの事務所にピケットラインを立てたりした。一連のコロンボの活動はガンビーノらマフィア主流派の不興を買い、運動を中止するように警告されたが従わなかった。1971年6月、正体不明の黒人ガンマンに銃撃され、植物人間となってボスの座を失った(そのまま彼は7年後に死亡)。1971年2月に出所したジョーイ・ギャロがコロンボ暗殺を仕組んだとも噂されたが、世間の注目がマフィアに集まることを嫌ったガンビーノが首謀したと信じられている。ギャロは翌1972年に誕生日を祝っていたレストランで何者かに射殺された。 その後ジョゼフ・ヤコヴェリなどがコロンボの代理ボスを務めた後、1973年にカーマイン・"ザ・スネーク"・パーシコ(英語版)がボスに就任し、息子のアルフォンス・"リトル・アリー・ボーイ"・パーシコと共に一家を操縦した。その後は獄中からカーマイン(懲役139年)、アルフォンスが親子でボス及びボス代行として一家を統治していた。 しかし、1991年になるとパーシコが獄中から一家を支配することに不満を持ったボス代行のヴィクター・オレナがボスの座を奪おうとしたため、後に「第三次コロンボ戦争」(ギャロ対プロファチ、ギャロ対コロンボの抗争に次ぐ)と呼ばれる抗争が勃発。パーシコ派とオレナ派、そして一般市民を含む多数の犠牲者を出した。この結果、オレナ、アルフォンス・パーシコら関係者が多数逮捕され、組織に大打撃を与えた。オレナとアルフォンスは共に終身刑の判決を受けた。 カーマイン・パーシコは2019年に獄中で死去した。事実上は、息子のアルフォンスがボス代行とされるが、ボスとしての後継者は不明である。
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