コロンボ陥落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/04/23 11:22 UTC 版)
1795年9月、レーニアは自軍の大半をジャカルタへの攻撃に転じ、アラン・ハイド・ガードナー(英語版)をコロンボ封鎖の指揮官に任命した。1796年1月、東インドにおける指揮を引き継いだジョージ・エルフィンストーンは、74門戦列艦アロガントと64門戦列艦ステイトリー(英語版)を援軍として派遣した。 1796年2月、セイロンに対する最後の遠征が準備され、コロンボの包囲についての計画が進められた。再度指揮を執ったステュアートはヒロインに乗っていたガードナー、16門スループのラトルスネイク、エコー、スウィフト、そしてイギリス東インド会社の船5隻の支援を受けて2月5日にニゴンボ(1795年にオランダが放棄した要塞)に上陸し、コロンボ城外まで抵抗を受けずに行軍、2月14日に到着した。駐留軍は降伏か即座に侵攻を受けるかの選択を迫られ、翌日の15日にファン・アンゲルベックは降伏を選択した。こうしてイギリス軍は平和裏にコロンボを占領した。 この戦いでイギリス軍が獲得した戦利品の価値は、コロンボでのものだけでも30万ポンド以上に昇った。さらに、それ以上にイギリス軍にとって重要であったことは、1802年に締結され、戦争を一時的に中断したアミアンの和約において、セイロン島はバタヴィアに返還する植民地に含まれなかったことである。セイロン島はそれ以降1948年に独立するまでの間、イギリス帝国の一部としてあり続けた。
※この「コロンボ陥落」の解説は、「セイロン侵攻」の解説の一部です。
「コロンボ陥落」を含む「セイロン侵攻」の記事については、「セイロン侵攻」の概要を参照ください。
- コロンボ陥落のページへのリンク