ケーブルテレビでのプロレス番組
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 16:12 UTC 版)
「マンデー・ナイト・ウォーズ」の記事における「ケーブルテレビでのプロレス番組」の解説
1980年代前半までにケーブルテレビが急速に発展し、プロレスが番組の一ジャンルとして定着した。プロレス番組は安価に制作できて高視聴率をたたき出せる優秀なコンテンツであった。アトランタのテレビ局WTCG(現在のWTBS)が1970年代後半にスーパーステーションになると、その局のコンテンツであったジョージア・チャンピオンシップ・レスリング(GCW)の番組は全国で視聴できるようになった。GCWは、当時世界のプロレス界最大の統括組織であったNWAの系列団体のひとつで、ジョージア地区をテリトリーとしていた。 団体のTV番組はアトランタのWTBSのスタジオに、少ないが熱狂的な観衆を入れて、試合とインタビューなどを収録する方式であった。これは当時、他のテリトリーのプロレス団体でも同様に行なわれていたやり方であった。ジャック・ブリスコとジェラルド・ブリスコの兄弟がGCWの大株主で、オレイ・アンダーソンが主に団体のブックを担当していた。 北東部を拠点とするプロレス団体WWFも、1983年に独自のケーブルテレビの番組『WWFオール・アメリカン・レスリング』を開始。USAネットワークで毎週日曜朝に放映された。同年、WWFはさらにケーブルテレビの番組『チューズデー・ナイト・タイタンズ』を開始した。 GCWの経営は順調であったにもかかわらず、ブリスコ兄弟は保有するGCWの株とテレビ番組枠を、WWFオーナーのビンス・マクマホンに売却し、1984年7月14日(この日はブラック・サタデーと呼ばれる)、マクマホンはGCWの時間枠に登場した。当時のケーブルテレビはWTBSとUSAネットワークの2つしかなく、これでマクマホンは、WWFの番組を全国放送できる枠をすべて買い取ったことになる。 しかしTBSでのWWFの番組は、旧来のGCW視聴者の支持を得られず視聴率は下がった。その上、マクマホンはアトランタのスタジオで収録してオリジナルの番組を作るという約束を反古にして、既存のWWFの番組のダイジェスト版を制作していた。1985年5月、TBSオーナーのテッド・ターナーの厳しい圧力もあり、マクマホンは団体とTBSの時間枠を、ジム・クロケット・ジュニアが所有する団体、NWAミッドアトランティック地区のジム・クロケット・プロモーションズ(JCP)に売却した。この出来事が、マクマホンとテッド・ターナーの確執として後に残ることになる。 この同年、USAネットワークの『チューズデー・ナイト・タイタンズ』は、WTBSで放映していた2時間番組のフォーマットに差し替えられ、番組名を『プライム・タイム・レスリング』に変えた。このフォーマットは、ボビー・ヒーナンとゴリラ・モンスーンの2人が録画された試合を解説するものだが、モンスーンが中立かベビーフェイス側を応援する立場であるのに対し、ヒーナンはヒール側に声援を送るという画期的な形式であった。2人のやりとりに人気が出て、この番組形式は多くのプロレス団体に真似をされた。
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