クルド人民防衛隊の展開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/16 06:29 UTC 版)
「ロジャヴァ革命」の記事における「クルド人民防衛隊の展開」の解説
クルド人民防衛隊(YPG)は2012年7月19日にコバニを占領した。続く20日、アムダ(Amuda)、アフリーンを支配に置き、シリア政府軍、反政府軍に続き第3の勢力としてシリア内戦へ参加することとなった。クルド民主統一党(PYD)とクルド人国民評議会(KNC)はこれらの都市の行政を行うために共同で委員会を組織した。シリア政府の治安維持部隊はこれといった抵抗もなく撤退したために大規模な衝突は起きなかった。シリア政府軍もまた別の地域での戦闘へと向かった。 クルド人民防衛隊(YPG)は進軍を続け7月21日にはトルコ国境から10キロの地点にあるマリキヤを制圧した。この時点で彼らはすでにカーミシュリーを制圧する意図を持っていた。カーミシュリーとはすなわちシリア国内のクルド人地区で最大の都市である。同じ日にシリア政府による攻撃で警戒に当たっていたYPGのメンバー一名が負傷している。翌日もクルド人の部隊はマリキヤで交戦していたと伝えられている。この日マリキヤでは、シリア政府の治安部隊がデモ隊に対して発砲し、若いクルド人活動家が一名死亡した。続いてYPGはラース・アル=アインとアル=ダルバーシーイェ(Al-Darbasiyah、またはDirbêsî)を制圧した。これらの都市ではシリア政府の各部隊はクルド人の発した最後通牒に応じる形で撤退していた。同日、カーミシュリーではYPGと政府軍の間で衝突が起こり、双方から1名ずつ死者をだした。 クルド人部隊がたやすく都市を制圧し、政府軍が大きな抵抗もなく撤退を繰り返していった裏にはクルドとシリア政府との間に取引があったのではないかという推測も存在する。すなわちシリア政府軍がクルド人地区から退く代わりにクルド人は地区を越えた進軍を控えるという条件は双方の利害が一致しているように思える。7月24日、PYDはシリア政府の治安維持部隊がアル・マアバダ(Al-Ma'bada、1万6千のクルド人の街)から撤退したと発表した。これはマリキヤとトルコ国境の中間にある都市である。YGPは後にすべての政府施設を支配に置いた。 ロジァヴァでの抗議活動は2011年を通し、2012年の春まで続いた。しかしシリア北部からは、クルド人のグループはもちろん他のエスニックグループにしても、自由シリア軍には参加することはなかった。アサド政権後のシリアでクルド人の代表権を認めるという確約が得られなかったことが理由にある。 2014年7月には当時勢いに乗っていたISILがクルド人地区に侵入。9月16日、コバニ包囲戦へと突入するとクルド人民防衛隊(YPG)は自由シリア軍と共闘、アメリカの主導する空爆による支援も受けて2015年1月にはISILを退けた。ISILにとっては初めての大きな敗北であり、この時にロジャヴァが国際社会の注目を浴びた。
※この「クルド人民防衛隊の展開」の解説は、「ロジャヴァ革命」の解説の一部です。
「クルド人民防衛隊の展開」を含む「ロジャヴァ革命」の記事については、「ロジャヴァ革命」の概要を参照ください。
- クルド人民防衛隊の展開のページへのリンク