クシャーナ朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 23:03 UTC 版)
「アフガニスタンの歴史」の記事における「クシャーナ朝」の解説
紀元前1世紀前半に大月氏傘下には貴霜翕侯(クシャンきゅうこう)の他に四翕侯があったが、カドフィセス1世(丘就卻)が滅ぼしてクシャーナ朝を開いた。カドフィセス1世は、カブーリスタン(カブール周辺)とガンダーラに侵攻し支配域とした。その子供のヴィマ・タクトの時代にはインドに侵攻して北西インドを占領した。 カニシカ1世の時代には、ガンジス川中流域、インダス川流域、さらにバクトリアなどを含む大帝国となった。カニシカ1世はパルティアと戦って勝利を収めた。 ヴァースデーヴァ1世はサーサーン朝のシャープール1世に敗北し、インドを失うと、その後もサーサーン朝に攻められて領土を失いカブールのみとなった。サーサーン朝のバハラーム2世の時代に滅亡し、その領土はサーサーン朝の支配下でクシャーノ・サーサーン朝となった。
※この「クシャーナ朝」の解説は、「アフガニスタンの歴史」の解説の一部です。
「クシャーナ朝」を含む「アフガニスタンの歴史」の記事については、「アフガニスタンの歴史」の概要を参照ください。
クシャーナ朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 03:47 UTC 版)
詳細は「クシャーナ朝」を参照 それから100余年、護澡城の貴霜(クシャン)翕侯である丘就卻(きゅうしゅうきゃく)が他の四翕侯を滅ぼして、自立して王となり、貴霜王と号した。丘就卻は安息(パルティア)に侵入し、高附(カーブル)の地を取った。また、濮達国・罽賓国を滅ぼし、その支配下に置いた。丘就卻は80余歳で死ぬと、その子の閻膏珍(えんこうちん)が代わって王となる。閻膏珍は天竺(インド)を滅ぼし、将一人を置いてこれを監領したという。この政権はクシャーナ朝を指すものであり、丘就卻はクジュラ・カドフィセス、閻膏珍はヴィマ・タクトに比定される。しかし中国ではそのまま大月氏と呼び続けた。
※この「クシャーナ朝」の解説は、「月氏」の解説の一部です。
「クシャーナ朝」を含む「月氏」の記事については、「月氏」の概要を参照ください。
クシャーナ朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 05:55 UTC 版)
詳細は「クシャーナ朝」および「ガンダーラ」を参照 マウリヤ朝の滅亡後、中央アジアの大月氏から自立したクシャーナ朝が1世紀後半インダス川流域に進出し、プルシャプラ(ペシャーワル)を都として2世紀のカニシカ王(カニシュカ王)のもとで最盛期を迎えた。この王朝は、中国とペルシア、ローマをむすぶ内陸の要地を抑えており、「文明の十字路」としての役割を果たした。この頃、仏教文化とギリシア美術が結びつきガンダーラ美術が成立した。クシャーナ朝は、3世紀にサーサーン朝ペルシアのシャープール1世による遠征を受けて衰退し、滅亡へと至った。
※この「クシャーナ朝」の解説は、「インドの歴史」の解説の一部です。
「クシャーナ朝」を含む「インドの歴史」の記事については、「インドの歴史」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
Weblioに収録されているすべての辞書からクシャーナ朝を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
全ての辞書からクシャーナ朝 を検索
- クシャーナ朝のページへのリンク