キングウィリアム島発掘(1981年–1982年)
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「フランクリン遠征」の記事における「キングウィリアム島発掘(1981年–1982年)」の解説
1981年6月、アルバータ大学の人類学教授オーウェン・ビーティが、1845年-1848年フランクリン遠征隊法医人類学プロジェクトを開始し、ビーティとその研究者と現場助手のチームが、エドモントンからキングウィリアム島に移動し、フランクリン隊が132年前にしたように島の西岸を移動した。このプロジェクトは現代の法医学を使って、失われた129人の死因を確定するために人工物や人骨の遺物を見つけることを期待していた。 このチームは19世紀ヨーロッパに関連する考古学的人工物と、関節で切り離された損傷を受けていない遺体の一部を発見したが、ビーティはより多くの遺物が発見されなかったことに失望した。フランクリン隊員の骨を調べると、壊血病の原因であるビタミンC欠乏の場合に見られる孔食やスケーリングが多く見られることに注目した。ビーティはエドモントンに戻ると、北極考古学者ジェイムズ・サベルの調査結果と比較して、骨の様子が人肉食を示唆していることに気付いた。フランクリン隊員の健康と食事について情報を求め、骨の標本をアルバータ土壌食料試験研究所に送って、微量元素分析を依頼すると共に、ふたたびチームを編成してキングウィリアム島を訪れた。分析では隊員の骨に鉛が226 ppm と予想外のレベルで含まれていることがわかり、それは同じ地域のイヌイットの骨から採られた対照実験用標本の26ないし36 ppm と比べると10倍だった。 1982年6月、ビーティが編成したチームは、アルバータ大学人類学大学院生ウォルト・コーワル、ブリティッシュコロンビア州サイモンフレーザー大学の考古学と地理学の学生アーン・カールソン、イヌーク族の学生で現場助手のアーシーン・タンジリクであり、キングウィリアム島の西海岸に飛んで、1859年にマクリントック、1878年から1879年にシュワトカがたどった道を再度たどった。この遠征で見つかったのは、マクリントックの「ボートを見つけた場所」近くで6人から14人の遺体と、既製品の滑り止めを付けた長靴の底など人工物であった。
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