キルワ・キシワニとは? わかりやすく解説

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キルワ・キシワニ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/06/20 01:14 UTC 版)

キルワ・キシワニとソンゴ・ムナラの遺跡群」の記事における「キルワ・キシワニ」の解説

キルワ・キシワニ島東アフリカ(現タンザニア領内)沖に浮かぶ島で、イスラム教徒コミュニティが今もある。 9世紀に、この島は商人アリ・ビン・アル=ハサン (Ali bin Al-Hasan) に売り渡され、以降の数世紀にわたり、交易拠点たる大都市として成長遂げた取引されていたのは、ジンバブエからの黄金タンザニアからの象牙奴隷アジアからの繊維宝石陶磁器香辛料などだった。 13世紀までに、マフダリ家 (Mahdali) の支配の下で、キルワ東アフリカ沿岸部最大の都市となり、その影響力はモザンビークにまで及んだイブン=バットゥータ1330年頃にこの島を訪れたことに関連し統治者 Sultan al-Hasan ibn Sulaiman の謙譲篤信精神高く評価している。この時期よりあとに、フスニ・クブワ宮殿 (Palace of Husuni Kubwa) の建造や、キルワの大モスク (Great Mosque of Kilwa) の拡張が行われた。 16世紀初頭に、ヴァスコ・ダ・ガマがこの優れた国から貢物受け取ったが、それからほどなくしてポルトガル支配下置いた1505年)。1512年まではポルトガルの手にあったが、その年にアラブ商人たち奪還された。都市幾許かの栄光取り戻しはしたが、1784年にはザンジバル島入植していたオマーン支配受けたその後フランスキルワの島北端要塞築いたが、島自体1840年打ち棄てられた。1886年から1918年の間はドイツ領東アフリカ一部とされたが、本格的な考古学調査1950年代始まった特筆すべき廃墟は大モスク跡やムクティニ宮殿 (Mkutini Palace) 跡などである。

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