キリスト教、仏教との関わり
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「織田秀信」の記事における「キリスト教、仏教との関わり」の解説
キリスト教への理解があり、グネッキ・ソルディ・オルガンティノを尊敬していたという。 文禄4年(1595年)には弟・秀則とともに入信しており、「生まれもって位が高く、大きな期待がかけられる」とルイス・フロイスの年報に報告されている。慶長元年(1596年)のサン=フェリペ号事件以後、信仰を公に表す行動は控えていたが、慶長3年(1598年)の秀吉没後は他のキリシタン同様、積極的に活動、慶長4年(1599年)には岐阜城下に教会と司祭館・養生所を建設、また尾張・美濃は信者が増加し、秀信の家来は大勢信徒であるとアレッサンドロ・ヴァリニャーノにより報告されている。 一方で、寺社の建立を行い、領内の寺院にしかるべき保護も加えており、決してキリスト教一辺倒ではなかった。秀信の創建になる寺院の主だったところには、祖父・信長が甲斐国から美濃国へと移して保護を加えた善光寺如来の分身を祀った伊奈波善光寺堂があげられる。また、円徳寺・法華寺・崇福寺などの寺院を保護した。 円徳寺には文禄2年(1593年)閏正月判物を与え、文禄3年(1594年)12月3日には法華寺に寺領20石を寄進、文禄5年(1596年)閏7月2日には加えて寺屋敷を寄進し、諸役免除と寺中における乱妨狼藉・陣取の禁止を通達している。 文禄4年(1595年)には崇福寺が信長・信忠及び織田家先祖の位牌所であるため、寺中門前諸役一切の免除を安堵している。崇福寺については文禄5年(1596年)にも門前諸役についての文書を発給し、秀吉の朱印を得たので安堵するようにと伝えており、重視していた姿勢が見て取れる。 これらの文書発給状況から、秀信の岐阜統治がこのころ本格化したことが窺える。秀吉の死後も秀信の統治方針は変らなかったようで、慶長4年(1599年)11月には本誓寺に判物を下し、慶長5年(1600年)にも妙照寺に竹中重治の屋敷跡地を寄進し寺地を移させている。本誓寺には遺物として感状が伝わり、縁の深さが窺える。
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