ガイドの活躍とは? わかりやすく解説

ガイドの活躍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/12/13 15:59 UTC 版)

アルプス黄金時代」の記事における「ガイドの活躍」の解説

それまで山については魑魅魍魎潜む場所としての認識しかなく、グリンデルヴァルトツェルマットシャモニー=モン=ブラン、ヴァルトナンシュ、クールマイユールといった山間部村の男たちはレイヨウ狩り水晶採り、旅人道案内密輸の手伝いなどで細々暮らしていたが、19世紀半ばアルプス山々急峻であるが故にスポーツ対象となり、登山基地として好適だったために登山好きの紳士多数やって来て青天の霹靂のようにガイド業が成立し現金収入の道が開けた。 ただガイド登山家の間にはかなり認識違いがあり、例えばこの時代幕開けとなったヴェッターホルン「初登頂」について言うと、主峰として認められていたのはグリンデルヴァルトからよく見えるハスリ・ユングフラウ(標高3,701 m)であり、最高峰はミッテルホルン(標高3,704 m)であり、その他にローゼンホルン(標高3,689 m)、という三つの峰があった。このうち最初に登られたのはローゼンホルンで、1844年8月28日のE・デゾール隊による。このデゾール隊に雇われガイドのM・バンホルツァーとJ・ヤーウンは1844年8月31日にハスリ・ユングフラウに初登頂、そして残る最高峰ミッテルホルンも1845年7月8日S・T・シュペールと3人のガイドにより初登頂されていた。アルフレッド・ウィルス(Alfred Wills )隊が1854年9月17日に登った時、ヴェッターホルンはすでに何回も登られており、ガイドとして同行したP・ボーレン自身ですらもう2度登頂経験があった。しかしお得意様であり、金と暇のあるイギリス紳士たちは初登頂喜び報酬はずんでくれるに違いなかったため、功利的な考えから「未踏峰」とすることが多かったのである。実はこの3ヶ月前にP・ボーレンE・Jブラックウェル隊のガイドとして頂上直下の棒を立てて下山しており、ウィルスもこのの棒に気がついたという。ところがアルフレッド・ウィルスの登頂有名になり記憶されることになった。 数が少ないながら、ガイドレス登山さらには単独登攀をする者もいた。スイスJ・J・ヴァレインマンは350座を登ったが、その中には1859年から1862年の間に行なわれ多く単独登山含まれていた。イギリス登山界は保守的で、ガイドレス登山に対してすら「登山史逆行するもの」「まったく不条理で、嘆かわしい結果を招く」と批判的であったが、実際に1858年ジョン・ティンダルによるモンテ・ローザ単独登頂など英国山岳会会員自身によるガイドレス登山数多くイギリス人によるガイドレス登山記録から拾えきりがないほどで「ガイドレス登山パイオニアは実はイギリス人だったかも知れないという人さえいる。次のアルプス銀の時代に入るとガイドレス登山にはさらに拍車かかった

※この「ガイドの活躍」の解説は、「アルプス黄金時代」の解説の一部です。
「ガイドの活躍」を含む「アルプス黄金時代」の記事については、「アルプス黄金時代」の概要を参照ください。

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