カリグラ、クラウディウス帝在位時期
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「ルキウス・アンナエウス・セネカ」の記事における「カリグラ、クラウディウス帝在位時期」の解説
37年3月、皇帝ティベリウスが死去し、ガイウス・ユリウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス(カリグラ)がローマ皇帝に即位した。カリグラが治世した当初は、カリグラの妹であるユリア・リウィッラ(en)やアグリッピナ(小アグリッピナ)の後ろ盾を得て順調であったが、37年10月にカリグラが大病を患ったことやその後の度重なる陰謀(濡れ衣であったものも多数あったとされる)が露見したことを境にしてカリグラは残忍な性格を露にし始める。39年、ゲルマニア遠征の最中にカリグラは遠征に同行していた義理の兄に当たるマルクス・アエミリウス・レピドゥス(en)を反逆を企てた罪で処刑し、2人の妹リウィッラとアグリッピナを追放刑とした。 後ろ盾であった2人を失った上、元老院を象徴し、弁論術で著名であったこともあり、セネカは元老院を激しく憎悪するカリグラによって処刑されそうになったが有力者からの取成しもあって難を逃れたと伝わっている。 41年1月、カリグラはプラエトリアニ(近衛隊)によって殺害され、クラウディウスが皇帝に即位した。追放されていたリウィッラとアグリッピナもローマへの帰国が認められたため、セネカも2人の取成しによって再びローマ政界へ復帰を果たした。しかし、クラウディウスの皇后であったメッサリナとリウィッラらが敵対。メッサリナはリウィッラとセネカが不義の関係にあった としてセネカを告発した。セネカはこれを否定したが、罪を得たリウィッラは処刑され、セネカはコルシカへの事実上の追放刑となった。なお、セネカとリウィッラが不義の関係にあったかどうかは定かではない。セネカはコルシカでの生活の間に母ヘルウィアに宛てた「ヘルウィア宛慰め」および「ポリュビウス宛慰め」の2つの作品を残している。 48年8月、ガイウス・シリウス(en)と結託してクラウディウスを殺害しようとし、またシリウスと結婚した罪でメッサリナはクラウディウスによって処刑された。メッサリナの自滅によってアグリッピナが再びローマへ復帰、アグリッピナの解放奴隷であったマルクス・アントニウス・パッラスの根回しもあってアグリッピナがクラウディウスの皇后となった。セネカは49年頃にコルシカからローマへ復帰したとされる。 50年、アグリッピナの後押しによりセネカはプラエトル(法務官)に選出され、同じ年にアグリッピナはクラウディウスとメッサリナの子であるブリタンニクスを押しのけて、前夫グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス(40年死去)とアグリッピナ自身の間の子であるルキウス・ドミティウス・アヘノバルブスをクラウディウスの養子とすることに成功した。アグリッピナはドミティウスの家庭教師としてセクストゥス・アフラニウス・ブッルスと共にセネカを起用した。クラウディウスの治世下でセネカは補充コンスル(執政官)にも就任した。
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