カメハメハ王朝と18世紀の入植者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 06:07 UTC 版)
「フォード島」の記事における「カメハメハ王朝と18世紀の入植者」の解説
正確な日付が記述された史料は無いが、ハワイ歴史協会(英語版)の歴史家は1818年2月9日にフランシスコ・デ・パウラ・マリンが島を入手し、その後にカメハメハ1世がオアフ島を征服する助力として武器の供与を行ったことで、彼の名が島名となったと信じている。しかし、マリンの日誌にある1809年付けの記述には、速くとも1791年には島と周囲の海域での漁業権を得ていたとある。彼は食料確保のために船で羊や豚、山羊、ウサギを運び込み、島外から持ち込んだ野菜や果樹を植えた。 1825年、訪英中に麻疹により死去したカメハメハ2世とその王妃カママル(英語版)の遺体を送り届けるために、HMSブロンド号(英語版)を指揮して第7代バイロン男爵ジョージ・バイロン(英語版)提督が到来した。オアフ島に滞在中、彼はパール川(真珠湾)の地図を作製した。乗船していた博物学者、アンドリュー・ブロクサムは、フォード島でウサギと野鴨を狩って過ごしていた。測量を担当していたチャールズ・ロバート・モールデン(英語版)中尉は、島を「ラビット島」と名づけた。1826年には、ヒラム・ポールディング(英語版)がアメリカ海軍士官として初めて島を訪れた。マリンが主張する島の所有権は不確かで、通常、ハワイ人は外国人に土地の所有を認めてはいなかった。カメハメハ2世は島がマリンに貸与されていただけだと考えており、1850年代には、グレート・マヘレ法(英語版)の下、島はカメハメハ4世(87ヘクタールを購入)とカメカメハ1世の孫娘で大族長の妻ケカウオノヒ(英語版)(59ヘクタールを譲与)の2人に分譲された。1865年8月28日、島は公売にかけられ、ジェームズ・I. ドーセットが1,040ドルで落札し、同じ年の12月28日にキャロライン・ジャクソンへ 1ドルで売却した。 セス・ポーター・フォードは、1851年にボストンから到来し、合衆国船員病院で医師として働き始めた。フォードは、1866年6月にキャロライン・ジャクソンと結婚し、島の運営を開始するとともに島名をマリン島からフォード島へ変えた。1866年の内にフォードは亡くなり、島は息子のセス・ポーター・フォード2世に相続される。フォードの息子が幼少の間はサンフォード・ドールが島を管理し、成人後の1891年にはジョン・パパ・イイの土地信託団体へ売却した。
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