カナ空爆
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カナ空爆(カナくうばく)は、レバノン侵攻時の2006年7月30日にイスラエル軍が南レバノンのカナ村に対し行なった空爆。
概要

2006年7月30日、反イスラエル武装組織ヒズボラが150発以上のカチューシャをカナから発射していたと宣言。イスラエル空軍は、ヒズボラが居たと思われるカナ中心部に2回の空爆を行なった。メディアはこの空爆で37人の児童(15人は身体障害・精神障害児で、避難救助を待っていた児童たち)を含む56人が死亡、負傷者多数と報道[1]。この空爆により、国際的な非難が高まり、同年7月31日にイスラエルは48時間の空爆停止に同意。同日、イスラエルは空爆停止に合意したにも拘わらずレバノン南部の港湾都市スースル北方で自動車を空爆。レバノン南部の村タイベ付近で地上部隊を援護する空爆を行い、地上部隊は南部のイスラム教シーア派組織ヒズボラの拠点を破壊し武器を押収する作戦を続行。
2006年8月1日、イスラエル軍は引き続き空爆停止の合意を破りレバノン南部のバヤダとマスール、東部のバールベック、ベッカー高原北部のアルハルマルを空爆。
ヒューマン・ライツ・ウォッチ 2006年8月2日報道 [2]:死亡者数: 28(児童数: 16)
情勢
死亡者一覧
カナ空爆死亡者
|
空爆による死者名, 年齢 |
1. Ahmad Mahmud Shalhub, 55. |
2. Ibrahim Hashim, 65. |
3. Hasna' Hashim, 75. |
4. `Ali Ahmad Hashim, 3. |
5. `Abbas Ahmad Hashim, 9 months. |
6. Hura’ Muhammad Qassim Shalhub, 12. |
7. Mahdi Mahmud Hashim, 68. |
8. Zahra Muhammad Qassim Shalhub, 2. |
9. Ibrahim Ahmad Hashim, 7. |
10. Ja`far Mahmud Hashim, 10. |
11. Lina Muhammad Mahmud Shalhub, 30. |
12. Nabila `Ali Amin Shalhub, 40. |
13. `Ula Ahmad Mahmud Shalhub, 25. |
14. Khadija `Ali Yusif, 31. |
15. Taysir `Ali Shalhub, 39. |
16. Zaynab Muhammad `Ali Amin Shalhub, 6. |
17. Fatima Muhammad Hashim, 4. |
18. `Ali Ahmad Mahmud Shalhub, 17. |
19. Maryam Hassan Muhsin, 30. |
20. Afaf al-Zabad, 45. |
21. Yahya Muhammad Qassim Shalhub, 9. |
22. `Ali Muhammad Kassim Shalhub, 10. |
23. Yusif Ahmad Mahmud Shalhub, 6. |
24. Qassim Samih Shalhub, 9. |
25. Hussain Ahmad Hashim, 12. |
26. Qassim Muhammad Shalhub, 7. |
27. Raqiyya Mahmud Shalhub, 7. |
28. Raqiyya Muhammad Hashim, unknown. |
出典: Human Rights Watch [1][リンク切れ] |

イスラエル
イスラエル首相エフード・オルメルトは、カナ空爆に関して「遺憾である」と発表、市民の退去勧告を行なってきたと述べた。ヒズボラがカナをカチューシャの貯蔵・発射地として、またカナ村民を人間の盾としているとも主張した。
イスラエルの国連大使であるDan Gillermanは、市民の死について「ヒズボラに責任がある」と語った。
レバノン
レバノン首相フアード・シニオラはカナ空爆を公式に非難。アメリカ合衆国国務長官コンドリーザ・ライス氏との会談を中止し、国際連合安全保障理事会の緊急開会を要請。
脚注
関連項目
外部リンク
「カナ空爆 2006」の例文・使い方・用例・文例
- 国会議員年金は、2006年4月1日をもって廃止された。
- フランスの初回雇用契約は2006年4月10日に撤回された。
- 時短促進法は2006年3月末に期限が切れた時限立法であった。
- 労働審判制度は、2006年に労働審判法によって導入されました。
- このメールは2006年に送った。
- あなたは2006年に長野に行きましたか。
- あなたは2006年に長野に行きませんでした。
- 2006年
- トルコとの試合終了後,トルシエ監督は,「日本の冒険は終わった。日本代表チームの監督を務めたことを誇りに思う。監督としてのこの4年間はすばらしいものだった。これから日本は,2006年W杯に向けて努力しなければならない。代表チームのダイナミックで野心的なプレイは世界に印象を与えたと思う。チームのメンバーそれぞれが,自分自身の能力に自信を持つべきだ。」と語った。
- ジーコ新監督とともに,日本は次の2006年ワールドカップに向けて活動を始めた。
- この試合は,2006年ワールドカップドイツ大会に向けての第一歩だった。
- 彼らの成績は,2006年のトリノ冬季五輪に望みを与えてくれる。
- 遺跡の範囲を判断する取り組みは,2006年まで続く予定だ。
- 日本が2006年ワールドカップの出場のチャンスを失えば,(テレビ)放送のスポンサーはおそらくサッカーに興味をなくすだろう。
- 2006年のトリノ五輪では, 1500メートル種目に出場し,金メダルを目指してその種目に集中したいと思っています。
- それらの対策は,2006年末までに実施される予定だ。
- 2006年末には,すべての外国人は,日本に入国する際に指紋採取や写真撮影されなくてはいけなくなる。
- その上,中国は,アジア1次予選で2006年ワールドカップから脱落した。
- 当初は,新札による旧札の入れ替えは,2006年11月に終わることになっていた。
- 入れ替えは,2006年春までに完了するだろうと考えられている。
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