カタリ派とカトリック教会とは? わかりやすく解説

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カタリ派とカトリック教会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 17:30 UTC 版)

アルビジョア十字軍」の記事における「カタリ派とカトリック教会」の解説

もともとカトリック教会聖職者堕落反対する民衆運動として生まれたカタリ派は、南フランス北イタリア一帯で活発となり、南フランスでは信仰の中心見られ都市アルビの名前からアルビ派よばれていた。 1147年教皇エウゲニウス3世アルビ派増えていた地域説教師たちを派遣しアルビ派信徒穏健にカトリック教会復帰させようとした。しかし、クレルヴォーのベルナルドゥスなどのわずかな成功例除けば、ほとんどの人が耳を傾けずに失敗終わったその後トゥール教会会議1163年)や第3ラテラン公会議1179年)においてカタリ派アルビ派)の禁止正式に決定された。当初教皇南フランス特使派遣しアルビ派信徒達にカトリック教会への復帰呼びかけるという方法がとられていたが、南フランス割拠していた領主達がフランス王権及ばない範囲において教皇庁影響力を及ぶことを嫌い、その後押し受けた地元司教達も教皇使節介入拒否した[いつ?]。 アルビ派問題政治問題化始めたことを危惧した教皇庁南フランス司教達の統治権停止しシトー会修道士ピエール・ド・カステルノーを教皇特使として現地派遣したピエールは非常に高圧的な人物で、アルビ派保護する世俗君主達を徹底的に罵って破門したが、1208年ローマへ帰還する途中で暗殺された。確証はないものの、教皇使節暗殺トゥールーズ伯レーモン6世の指示であったとされている。レーモン6世は同地領主で自らはアルビ派ではなかったものの、領民であるアルビ派弾圧を望まなかったために激し口論となり、結局それを理由ピエールから難癖つけられ破門され経緯があった。 この使節殺害カトリック威信を傷つけられ教皇インノケンティウス3世激怒しアルビ派殲滅とそれを保護する南仏諸侯征伐のため、十字軍呼びかけた(インノケンティウス3世7年前に呼びかけ第4回十字軍も、結果としてキリスト教国である東ローマ帝国征服している)。

※この「カタリ派とカトリック教会」の解説は、「アルビジョア十字軍」の解説の一部です。
「カタリ派とカトリック教会」を含む「アルビジョア十字軍」の記事については、「アルビジョア十字軍」の概要を参照ください。

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