カイドゥ・ウルスへの投降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/05 05:30 UTC 版)
「ドゥルダカ」の記事における「カイドゥ・ウルスへの投降」の解説
1290年(至元27年)には再びカイドゥによる侵攻があり、当時大オルド(大帳)を守っていたドゥルダカとヤクドゥが撃退のため出陣した。ところがドゥルダカらの軍は戦わずして潰走してしまい、ヤクドゥ軍の輜重はカイドゥ配下のヨブクルとメリク・テムルによって掠奪され、ヤクドゥは僅か13騎とともに逃れるほどの大敗を喫し、ドゥルダカはこれ以後暫く漢文史料に記載されなくなる。一方、『集史』には「ある者達が彼(ドゥルダカ)を密告したので、クビライ・カアンは彼を召喚した。[ドゥルダカは]恐れ少数の部下達と逃げ、アリク・プケの子ヨブクル及びモンケ・カアンの孫でシリギの子であるウルス・ブカと結んだ。そして彼のもとにいた」とあり、ドゥルダカは何物かの密告によってクビライに処罰されることを恐れ、ヨブクルとウルス・ブカを頼ってカイドゥ・ウルス側に亡命したと記される。『元史』『集史』双方の比較により、ドゥルダカは1280年代に高位の将軍としてモンゴル高原に駐屯していたが、1290年の敗戦によりクビライの信頼を失い、責任を問われることを恐れてカイドゥ・ウルスに亡命するに至ったのではないかと考えられている。 カイドゥ・ウルスに所属している間のドゥルダカの動向については全く記録がないが、クビライが1294年に死去してしばらく経つと、ドゥルダカとヨブクル、ウルス・ブカらは大元ウルスの側に投降することを考えるようになった。ドゥルダカが投降を決意するに至った理由について、『集史』「テムル・カアン紀」は「[私は]クビライ・カアンを恐れて逃げたのです。私は、そこ(カイドゥ・ウルス)にいた間、全くカアンの軍隊と戦わず、攻めもしませんでした。テムルがカアンとなったので、この時を好機とし、これらの諸王たちと相談して来たのです」というドゥルダカの弁解の言葉を記載している。そもそも、カイドゥは様々な理由からクビライと対立する者たちが拠り集まった「反クビライ勢力の連合体」という側面が強かったが、他ならぬクビライの死によって本来の目的が薄れ、改めて大元ウルスとカイドゥ・ウルスの国力差・経済格差が浮き彫りとなり、ドゥルダカらの投降に繋がったものとみられる。
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