オレーグの子らとヴラヂミルの子らとの争い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 15:51 UTC 版)
「キプチャク」の記事における「オレーグの子らとヴラヂミルの子らとの争い」の解説
1128年、オレーグの子フセヴォロド2世はポロヴェッツを呼び、7千人のポロヴェッツ人がセルークと共に来て、ヴイリのかなたのラトミルの森の近くに留まった。ポロヴェッツはフセヴォロド2世からの報告がなかったので、引き返した。 1135年、ポロヴェッツ人がフセヴォロド2世のもとに到着した。フセヴォロド2世は兄弟とムチスラフの子イジャスラフ及びスヴァトポルクと共に進発し、ペレヤスラヴリ領の村や町を荒らし、人々を殺した。さらにキエフにまで達し、ゴロドークに火を放った。彼らはドニェプル川の対岸を乗り歩き、人々を捕虜にしたり、殺害したりした。また、それらの人々はドニェプル川を越えて家畜を移すことができなかったため、多数の家畜も捕えた。一方、ヤロポルクも自分の戦士たちと共に川を越えることが出来なかった。彼らは3日間、ゴロドークの彼方の松柏林の中に留まってからチェルニゴフに赴き、そこから互いに使者を交わして和を結んだ。 1136年、フセヴォロド2世は兄弟らと共にペレヤスラヴリに来て町の近くに3日間留まった。主教の門および侯の門のあたりで戦い、ヤロポルクは戦士たちを待たずに親衛隊と兄弟らと共に出陣した。両軍は堅固に戦ったが、やがてオレーグの子らのポロヴェッツ人が逃げ出し、ヴラヂミルの子らの親衛隊であるヤロスラフの子ダヴィド,トゥドコの子スタニスラフらがポロヴェッツ人を追い、オレーグの子らと戦った。この時、レオンの子ヴァシリコ王子が戦死し、激しい戦闘で両軍の多くの人が倒れた。ポロヴェッツ人を追いかけたヴラヂミルの子らの親衛隊はポロヴェッツ人を撃ち破り、再び戦場に戻ったが、ヴラヂミルの子らであるヤロポルク,ヴャチェスラフ,ユーリーおよびアンドレイらがすでに撤退していたため、オレーグの子らに降った。 1140年、フセヴォロド2世はキエフ大公となり、ヴラヂミルの子らおよびムスチスラフの子らと和平を結ぶことを望んで彼らに使者を遣わし、ムスチスラフの子イジャスラフをヴラジミルの町から招こうとした。しかし彼らはフセヴォロド2世と和平を結ぶことを欲せず、キエフに兵を進めることを望んだ。これに対してフセヴォロド2世は弟のスヴャトスラフと共にペレヤスラヴリのアンドレイを攻撃し、またポロヴェッツ人を率いたダヴィドの子イジャスラフ、ヴァシリコの子イヴァンおよびガリーチのヴォロダリの子ヴラヂミルをヴャチェスラフおよびムスチスラフの子イジャスラフに向かって遣わした。同じ年、ポロヴェッツが和を結びに来たため、フセヴォロド2世はキエフから、アンドレイはペレヤスラヴリからモローチンに来て彼らと和を結んだ。 1146年、ノヴゴロド・セーヴェルスキー公のスヴャトスラフはポロヴェッツのもとへ人を遣わし、やがてポロヴェッツ人300人が彼のもとへ来た。ユーリーの子であるロスチスラフ(ru)とアンドレイがヤロスラフの子ロスチスラフに対抗してリャザニに来た。ロスチスラフはリャザニからエリトゥクというポロヴェッツ人のもとに逃れた。この同じ時、スヴャトスラフは自分の戦士たちに多くの贈り物を与えて、彼らをポロヴェッツ人のもとへ行かせた。 1147年、スヴャトスラフはネリンスクの近くに留まった。その時、彼の叔父であるポロヴェッツ人からの使者60人がヴァシリー・ポロフチャーニンと共に彼のもとに来た。この同じ時、ルーシから年少親兵らが来たので、ヴラヂミルはチェルニゴフに、イジャスラフはスタロドゥープに在る旨を彼らに告げた。スヴャトスラフはデドスラヴリにて、別のポロヴェッツ人であるトクソヴィチ一族の者等と会った。スヴャトスラフは彼らにクチェブの子スヂミルおよびゴーレンをつけ、スモレンスクの人々を攻めさせた。トクソヴィチらはウグラ川の上流の地を荒らした。スヴャトスラフはデヴャゴルスクに赴き、全ヴァチチ,ブリャンスク,ヴォロビイノまでのデスナ川沿岸の地、ドマゴシおよびムツェンスクを取った。この時、彼のもとへ多くのポロヴェッツ人が来た。ユーリーの子グレープはデヴャゴルスクのスヴャトスラフのもとへ来て、スヴャトスラフの子,ユーリーの子およびポロヴェッツ人と共にムツェンスクに赴き、そこで彼らに多くの贈り物を与え、クロムイの町に赴いた。ダヴィドの子イジャスラフ、オレーグの子スヴャトスラフおよびポロヴェッツ人は、イジャスラフ2世がすでに弟ロスチスラフと結合して、彼らに向かって進軍しつつあることを聞いた。その同じ夜にポロヴェッツ人は彼らのもとからポロヴェッツの地へと去り、彼らのもとには少しばかりのポロヴェッツ人が残った。彼ら自身はチェルニゴフを指してグレーブリに向かって出発した。イジャスラフ2世とロスチスラフはポロヴェッツ人がすでに諸方に散ってしまったことを知ると、チェルニゴフに向かって出発し、家来たち,親衛隊たち,黒頭巾(チョールヌイエ・クロブキ)らとともに、合議し始めた。
※この「オレーグの子らとヴラヂミルの子らとの争い」の解説は、「キプチャク」の解説の一部です。
「オレーグの子らとヴラヂミルの子らとの争い」を含む「キプチャク」の記事については、「キプチャク」の概要を参照ください。
- オレーグの子らとヴラヂミルの子らとの争いのページへのリンク