オレンジ革命以後
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「ユーリヤ・ティモシェンコ」の記事における「オレンジ革命以後」の解説
2005年1月24日、ティモシェンコはユシチェンコ大統領によって首相代行に指名された。ユシチェンコは閣僚名簿を議会に提出し、与野党の交渉の結果、2月4日に373票(承認に必要な投票数226)の圧倒的多数の賛成によって承認され、正式に首相に就任した。首相在任中は、大衆迎合的な言動が目立ち、ティモシェンコ派による工場乗っ取り事件などもあり、国民の反発を買っていた。また、オレンジ革命で共闘したユシチェンコと対立した。そのため、2005年9月8日にユシチェンコ大統領によって首相を解任される。 2006年3月、ウクライナ最高会議の選挙では前回の選挙の三倍近くの票を獲得し、第二党に躍進する。ウクライナ最高会議でのユシチェンコ派の与党「われらのウクライナ」の惨敗を受け、首相への返り咲きを狙っていたが、2006年7月9日、ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ率いる地域党と社会党、共産党の3政党が連立与党を組む合意によって阻止され、ヤヌコーヴィチの首相就任を許した。 2007年9月に行われた議会選挙では、ティモシェンコ・ブロックは前回よりも議席数を伸ばし、盟友のユシチェンコ率いる「われらのウクライナ」とあわせて議会の過半数を獲得。同年12月18日、首相に返り咲いた。2008年1月にはソ連時代の貯蓄銀行の個人資産への補填を実施し、支持率を飛躍的に高める。しかし大統領の権限を制限する一連の法案を提出したことで、大統領側と対立を深めることになった。さらに同年8月からの南オセチア紛争以降は、グルジア寄りの姿勢を採らず、外交上でも大統領側との立場の違いが明確化した。そして同年9月16日、ユシチェンコ与党「われらのウクライナ」が連立政権から離脱した。同年10月1日にティモシェンコはユシチェンコがグルジアへ武器を提供していたと告発した。翌10月2日にロシアを訪問、首相のウラジーミル・プーチンと会談し、天然ガス輸入価格の抑制をとりつけることに成功した。その後、大統領との対立は同年12月9日にユシチェンコ、ティモシェンコ、そしてウクライナ最高会議議長のリトビンの三派による連立政権が樹立されたことで一応の決着をつけた。 2009年3月25日に来日。
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