オレンブルク建設とバシキール問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/12 20:02 UTC 版)
「プガチョフの乱」の記事における「オレンブルク建設とバシキール問題」の解説
アンナ (ロシア皇帝)の治世(在位:1730年 - 1740年)には、1731年頃にカザフ・ハン国の小ジュズ(Младший жуз)、中ジュズ(Средний жуз)、大ジュズ(Старший жуз)がジュンガル・ホンタイジ国の脅威にたえかねて相次いでロシアに服属を表明した。1734年、ロシア帝国は、南ウラル地方に東方前線基地建設計画を立案、1735年に要塞都市を建設を開始した。ヤイク川(バシキール語: Яйыҡ、カザフ語: Жайық、反乱後にロシア語名はウラル川 Урал と改名された)とオリ川(英語版)(露: Орь)の合流地点の町は「オリ川の要塞」の意味で、オレンブルクと命名された。オレンブルク要塞の建設に反発するバシキール人は、バシキールの蜂起 (1735年-1740年)(ロシア語版)を起こしたが、強力な弾圧が加えられた。エリザヴェータ (ロシア皇帝)の治世には、1743年にオレンブルクは城郭都市オレンブルク城郭(ロシア語版)として完成した。
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