オリンピック以降、そして引退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 07:49 UTC 版)
「山下泰裕」の記事における「オリンピック以降、そして引退」の解説
1984年10月9日にはこれまでの活躍が高く評価されて国民栄誉賞を授与された。 1985年4月には最後となる全日本選手権に出場して、準々決勝で東海大学の教え子である樋川純を横四方固で破ると、準決勝でも正木嘉美を同じく横四方固で破り、決勝では斉藤仁を相手に中盤、支え釣り込み足を仕掛けたものの技が空振りした所を浴びせられて背中から倒れた格好となったが、この技は審判から有効な技と見なされず、その後山下は攻勢に出て斉藤がやや守りの姿勢に入って試合が終了した。中盤に繰り出された斉藤の返し技がどのように判断されるか注目されたが、結局、副審2名には判定の大きな材料とはならず、山下が旗判定で優勢勝ちして、全日本選手権9連覇を達成した。主審の神永昭夫は斉藤優勢としたが副審2名は山下優勢とした。 以上のように、1977年10月の日ソ親善試合から1985年4月の全日本選手権優勝を最後に現役を引退するまで、約7年6ヶ月の間に203連勝を記録した(途中、引き分けを7回はさんでいる)。また、同期間内に全日本選手権9連覇も達成。なお、203連勝は柔道における最多連勝記録であると、2019年にギネスによって認定された。 怪我が完治しなかったことから、不敗記録が途切れぬまま、1985年6月17日に28歳という若さで引退を決断した。
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