エレベス号航海
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 07:32 UTC 版)
「ジョセフ・ダルトン・フッカー」の記事における「エレベス号航海」の解説
1839年から1843年の間、ジェームズ・クラーク・ロスの南極探検の航海に加わった。探検隊はフッカーが乗るエレベス号ともう一隻テラー号で構成されていた。フッカーはエレベス号の乗員128人の中でもっとも若かった。彼はロバート・マコーミック(ビーグル号の航海でも当初ダーウィンと同乗していた)の助手であった。マコーミックは軍医の仕事以外に動物と地質学の標本を収集するよう命じられていた。探検隊は1839年9月30日に出航し、南極大陸に到達する前にカーボベルデやマデイラ諸島、テネリフェ島などに、さらにトリニダード島、セントヘレナ島、喜望峰などに立ち寄った。フッカーは各々の場所で植物を採集し、藻や海洋生物を網で集めそれらを絵に描いて記録した。 探検隊はケープから南極海に入った。クローゼー諸島のポゼッション島に立ち寄った後、ケルゲレン諸島に数日停泊した。オークランド諸島とキャンベル島を経由し、南極大陸に到達した。彼らは5ヶ月を南極大陸で過ごし、補給のためヴァン・ディーメンズ・ランドのホバートに戻った。シドニーとニュージーランドを経て再び南極へ向けて出発した。しかしテラー号とエレブス号の間に軋轢が起こり、138日航海のあとフォークランド諸島のティエラ・デル・フエゴ島に着いた。そして再び南極へ向かって出発した。南極を出発するとコックバーン島、ケープ、セントヘレナ島、アセンション島を経て1843年9月4日にイングランドに帰還した。この航海は南極大陸の測量を初めて成功させた。 帰国後、エジンバラ大学でアカデミックな地位を得ることができず、グラスゴー大学の職は辞退した。その代わりに1846年のグレートブリテン島の地質学調査隊の植物学者を引き受けた。彼は古植物学の研究を始め、ウェールズの炭層で化石植物を探した。チャールズ・ダーウィンの師ジョン・ヘンズローの娘フランシスと婚約したが、フッカーは旅行をしてフィールド調査の経験を積むことを望んだ。1847年に父ウィリアム・フッカーはキューガーデンのためにインドで植物を採集する候補者に息子を指名した。フッカーが南極から帰国したとき父はキューガーデンの園長に指名されており、科学界でも名の知られた人物であった。ウィリアム・フッカーは個人的な人脈を通して南極航海に1,000ポンドの補助金を、その後の息子の植物相の研究のために年200ポンドの年金を確保した。ウィリアム・フッカーの植物コレクションは大英博物館が所持していたクックとメンジース、そしてビーグル号が収集した植物もおさめることになった。植物コレクションはウィリアム・フッカーの元で学んだウォルター・フッド・フィッチによって描かれた。フィッチはビクトリア朝でもっとも多産な植物画家となった。 ジョセフが収集した植物は二分冊の「南極大陸の植物相」(1844-1847)のうち一冊で詳述された。彼は島が植物地理学に果たす役割を論じ、この研究はフッカーの分類学者としての名声を形作った。彼はさらに「ニュージーランドの植物相」(1851-1853)「タスマニアの植物相」(1853-1859)を出版して研究を完成させた。
※この「エレベス号航海」の解説は、「ジョセフ・ダルトン・フッカー」の解説の一部です。
「エレベス号航海」を含む「ジョセフ・ダルトン・フッカー」の記事については、「ジョセフ・ダルトン・フッカー」の概要を参照ください。
- エレベス号航海のページへのリンク