エリザヴェータ1世のもとで
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「アブラム・ガンニバル」の記事における「エリザヴェータ1世のもとで」の解説
1741年には、ピョートル1世の娘エリザヴェータ(在位1741年 - 1762年)が皇帝として即位した。ガンニバルは女帝の宮廷で揺るぎのない存在となり、少将の地位を与えられ、タリンの総督となった(1742年-1752年)。[要出典] エリザヴェータ女帝に対し、ガンニバルは貴族の地位と紋章を賜るよう公式の請願書を送っている。また、象の絵と神秘的な文字FVMMOと書かれた家紋を使用する権利を求めた。この紋章は、西アフリカのコトコ王国(英語版)が故郷であることを意味するとされるが、FVMMOは、ラテン語の“Fortuna Vitam Meam Mutavit Oppido”(幸運がこの都市で私の人生を変えた)の頭文字ではないかとも考えられる。1744年3月22日には、手紙に“A. Ganibal”と署名を残した。 エリザヴェータは1742年に、100人以上の農奴のいるプスコフ県のミハイロフスコエ村を所領として与えた。 [要出典] 1786年の土地調査によると、5000エーカー(約2230ヘクタール)の地所であった。6分の1は製材用の森林で、まばらに散らばった集落には約200人の農奴が暮らしていた。このミハイロフスコエ村の土地は、ガンニバルの息子オシップ、その娘ナデージダ、ナデージダの息子プーシキンへと相続された。 ロシア軍元帥アレクサンドル・スヴォーロフ(1729-1800)は、18世紀の数々の戦争を勝ち抜いた希有な軍人である。彼が軍人になったのは、ガンニバルがスヴォーロフの父を説得し、自らの部下の一兵卒として仕えさせたと噂さされた[要出典]。
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