エストニア独立に関して
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/15 14:38 UTC 版)
「ヤーン・ポスカ」の記事における「エストニア独立に関して」の解説
1890年に大学を卒業し弁護士となり、自身の法律事務所で大学の後輩であるコンスタンティン・パッツを助手として雇う。1895年に母が亡くなるがコンスタンス・エクストレミガと結婚する。1904年には議員となり翌年には市議会議長となった。 1913年から1917年までタリン市長となる。近代化を進め、疎かにされていた医療に力を注ぎ、女性向けの実業学校などを設立した。第一次世界大戦時にもかかわらず彼の手腕でタリンは発展した。1917年の前半、ロシア、ドイツの戦争で荒れた町を復興し、市民の安全を保障しロシア軍の略奪にも備えた。 政治改革のため1917年4月12日にエストニア地方議会選挙をはじめて行う。これと同時にエストニア自治政府が誕生した。11月28日にはエストニアのすべての権限は議会にあると主権宣言を行った。 しかし、その直後に共産主義者が力で町を支配した。エストニア自治政府は地下組織として生き延び、翌年2月にドイツ軍がエストニアを占領すると共産主義者らはロシアへ逃亡した。それと同時にエストニア自治政府は二回目の選挙を行った。結果、ポスカは外務大臣兼副首相となり、1919年にはさっそくソビエトロシアに派遣される。 パリ講和会議ではエストニアは国際的な地位を得ておらず会議参加ができなかった。1920年、タルトゥ条約によりエストニアの独立が明確になるとポスカらエストニア代表団のメンバーが署名した和平合意後にポスカは「今日はエストニアの700年の歴史の中で最も重要な日である。今日初めてエストニアでは、自分自身が将来の運命を決めた。」とスピーチを行った。帰国後は弁護士の仕事に戻り、最後の憲法問題委員会において議長を務めた。その3日後の3月7日に亡くなる。
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