イギリスの反撃とミール・ジャアファルの裏切り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/11 15:14 UTC 版)
「シラージュ・ウッダウラ」の記事における「イギリスの反撃とミール・ジャアファルの裏切り」の解説
同年12月半ば、イギリスの軍司令官ロバート・クライヴは歩兵150人、砲兵100人、インド人傭兵1,200人を率いてマドラスから到着し、カルカッタへと進軍した。1757年1月2日に彼はカルカッタを奪還し、シラージュ・ウッダウラに対して宣戦を布告した。その後、フーグリーにあるオランダ人居留地を攻撃し、これを攻略した。まもなく、シラージュ・ウッダウラもフーグリーへ到着し、イギリスに事業再開の許可を与える意向を示した。 同年2月、シラージュ・ウッダウラはイギリスとフーグリーで和平交渉を始めたが決着がつかず、クライヴは和平交渉継続の印象を残し宿舎に帰った。だが、クライヴはベンガル軍に対し夜襲をかけ、不意を突かれたシラージュ・ウッダウラの軍勢は大混乱ののち四散した。このとき、イギリスと内通していたミール・ジャアファルら側近がシラージュ・ウッダウラに対して講和を強く勧め、彼は休戦協定(アリーナガル条約)に調印した。 同年3月、イギリスはフランスのベンガルにおける拠点シャンデルナゴルに対し猛攻を加え、耐え切れなくなったフランス軍は降伏し、フランスはベンガルにおける重要な拠点を失った。だが、シラージュ・ウッダウラはフランス敗北の報を聞くとイギリスに祝意を述べたが、彼のもとに逃亡したフランス人は保護し、イギリスの引き渡し要求に応じなかった。 しかし、シラージュ・ウッダウはこの頃、自分に対する陰謀が張り巡らされていることに少しずつ気が付き始めていた。だが、陰謀を張り巡らせているものには断固とした態度をとらなかったため、その勢いはさらに増していった。イギリスは太守の味方であるミール・ジャアファルと密かに内通し続けて味方につけ、6月4日にシラージュ・ウッダウラへの非協力を条件にベンガル太守の位を約束する条約を秘密裏に結んでいた。 シラージュ・ウッダウラは不安になり、ミール・ジャアファルを呼んだが応じなかったため、みずからその邸宅へ懸念を伝えるために向かった。ミール・ジャアファルはにいかなる敵対行為にも加担しないと約束したため、彼とともにイギリスを迎撃するためにカルカッタ付近のプラッシーへと向かった。
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