アヴェルサ伯領、1049年–1098年
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「ノルマン人による南イタリア征服」の記事における「アヴェルサ伯領、1049年–1098年」の解説
1050年代及び1060年代の南イタリアにおけるノルマン人勢力の中心地は二つ存在した。一つはウンフレート支配下のメルフィであり、もう一つはドロゴーネ支配下のアヴェルサである。リッカルド1世・ドロゴーネ(イタリア語版)は恐らくは暴力的な手段で以てアヴェルサ伯領を1049年に継承すると直ちにオートヴィル家のライバル達と競争する形での領土の拡張政策を始めた。 リッカルド1世は当初、カプア公ランドルフォ6世(英語版)、ガエタ公アテノルフォ1世(イタリア語版)、サレルノ公ギスルフォ2世(イタリア語版)と言ったランゴバルド系の隣人との間で絶え間のない争いを繰り広げた。リッカルド1世は、かつては強大な公国であったが、サレルノの都市その物であるところのわずかに左側まで国境線を押しやった。リッカルド1世は自身の娘とアテノルフォ1世の長子との間で婚約を取り付けることで平和的に影響力を拡大はしたものの、その長子が結婚前に死ぬと彼の両親からのランゴバルドのモルゲンガブ(英語版)を求めた。アテノルフォ1世がこれを拒絶するとガエタに残されていたわずかな封土の一つであるアクイーノを1058年に包囲して落とした。リッカルド1世のガエタ征服の年代は混同されている。1058年から1060年までの文書はリッカルド1世の長子ジョルダーノ1世(英語版)をガエタ公(イタリア語版)として言及しているが、アテノルフォ1世が1062年に死ぬまで未だガエタ公であったことから、これらは偽造であると論じられている。 アテノルフォ1世没後にリッカルド1世、ジョルダーノ1世はガエタ公国に支配を及ぼしたはしたものの、1064年に完全にガエタがドロゴーネの公国に組み入れられるまで、アテノルフォ1世の相続人であった アテノルフォ2世(英語版)に自らの臣下として統治することを許した。リッカルド1世、ジョルダーノ1世親子は、大概はノルマン人出身であった傀儡の公を任命した。 1057年に病弱なカプア公が死ぬとリッカルド1世は直ちにカプアを包囲した。ガエタ同様、そのカプア征服の年代は混同している。パンドルフォは、1062年5月12日までカプア公であったと記録されている兄弟のランドルフォ8世(英語版)からカプアを継承した。リッカルド1世、ジョルダーノ1世親子は1058年にカプア公の称号を採用はしているものの表面上はランドルフォ8世が恐らくはリッカルド1世親子の下位のもとで統治することを許されており、それが少なくとも4年以上に及ぶ同都市の決めてとなる。1059年にローマ教皇ニコラウス2世はメルフィにて教会会議を召集し、そこでリッカルド1世をアヴェルサ伯とカプア公として承認した。リッカルド1世は後に自身が獲得した物への見返りとして教皇に忠誠を誓った。その後、ドロゴーネはカプアを自らの本拠地とし、ここからアヴェルサとガエタを支配した。 リッカルド1世、ジョルダーネ親子は自らの新しいガエタとカプアの領域をラティウム 方面及び教皇領内部と言った北部へと拡大させた。1066年にはリッカルド1世はローマその物に進軍しているものの早々に引き返すことを余儀なくされた。しかしながら、リッカルド1世の後継者としてのジョルダーネ1世の地位が、リッカルド1世が試みてこぎ付けた教皇との同盟期間を跡付けてカプアの征服が中止された。しかしながら、1090年にジョルダーネ1世は死去して、その幼い息子であるリッカルド2世(英語版)とその摂政にはカプアその物を掌握することは許されなかった。両人はランゴバルド系のランドーネ4世(英語版)によって街を追われ、そのランドーネ4世は都市民の支援のもとで1098年のカプア包囲戦(英語版)でアルタヴィラ家の混成軍によって奪取されるまでカプアを支配した。かくしてランゴバルド人によるイタリア支配者完全に終焉を迎えた。
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