アンサンブルからオーケストラへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/14 03:08 UTC 版)
「ワシーリー・アンドレーエフ」の記事における「アンサンブルからオーケストラへ」の解説
バラライカ・アンサンブルの成功に自信を持ったアンドレーエフは、これをさらに発展させた、民族楽器によるオーケストラの編成をめざした。アンドレーエフの活動に専門音楽家たちも関心を向けるようになり、作曲家ニコライ・フォーミン、音楽家・人種学者ニコライ・プリヴァロフ、民族オーケストラ理論家ウラディーミル・ナーソン、バラライカ演奏家・製作家ボリス・トロヤノフスキーらが協力者となった。 1890年、指物職人ナリーモフ製作によるバラライカと出会ったアンドレーエフはこの楽器に夢中になり、ナリーモフをマリイーノ村に招聘して、オーケストラ用の楽器一式の製作を依頼する。同時にアンドレーエフは、各楽器の自然さと合理性に見合い、楽器の持っているすべての性能を発揮できる奏法を独自に研究・開発した。 その後もアンドレーエフは音楽事業家・出版者ミトロファン・ベリャーエフのサークルでバラライカ・アンサンブルによるロシア民謡を演奏し、出席していたアレクサンドル・グラズノフ、ニコライ・リムスキー=コルサコフ、アナトーリ・リャードフ、ウラディーミル・スターソフ、ゲストとして招待されていたピョートル・チャイコフスキーらに好意的に迎えられた。ティフリス(現トビリシ)の演奏会では、アントン・ルビンシテインから絶賛を受けた。 とはいえ、アンドレーエフの活動に理解を示したのは民族的・進歩的な考えを持つ音楽家たちであり、当時イタリア・オペラを主流としていた宮廷や貴族たちの反応は冷ややかなものだった。悩んだアンドレーエフは作家のレフ・トルストイに相談し、1896年3月にトルストイは手紙を書いてアンドレーエフを励ました。 1895年に半球型の胴をした3弦の古い楽器が発見され、これをドムラだと考えたアンドレーエフは、この楽器を元にしてドムラの復元・試作を開始する。しかし、後になってこの楽器はドムラではなく、バラライカであることが判明した。また、フォーミンとともにグドーク(3弦を持ち、弓で弾く楽器)の改良に取り組み、この楽器による四重奏を実験したが、これは失敗に終わった。 こうした試行錯誤を経ながら、ナリーモフの楽器製作は高い完成度に達するようになり、1900年のパリ万国博覧会、1907年のサンクトペテルブルク第1回全ロシア楽器展において、彼の製作楽器はいずれも金メダルを受賞、ナリーモフは「ロシアのストラディバリ」との名声を得るようになる。
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