アレッポ政権の消滅とシリア・セルジューク朝の解体
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「シリア・セルジューク朝」の記事における「アレッポ政権の消滅とシリア・セルジューク朝の解体」の解説
アレッポの政権も支配力は脆弱で、征服したアンティオキアにアンティオキア公国を立てた十字軍の指導者ボエモンによってアンティオキアからアレッポの間にある諸都市を奪われ、一時は滅亡の危機に陥った。 リドワーンは、政権の基盤を支えるために即位直後から親ファーティマ朝の姿勢を取って支援を引き出し、金曜礼拝のフトバにセルジューク朝の属するスンナ派のアッバース朝のカリフにかえてシーア派の一派イスマーイール派であるファーティマ朝のカリフの名を誦ませることすらあったが、このことはかえってスンナ派の信徒が多い北シリアのムスリム(イスラム教徒)たちの支持を失わせることにもなった。また、大セルジューク朝のモースル総督やルーム・セルジューク朝との抗争のために十字軍との同盟を行いさえした。そしてシーア派の過激派教団ニザール派、いわゆる「暗殺教団」(シリアではバーティニ派とも呼ばれた)に心酔してその保護者となり、彼らの言いなりとなっていた。 1113年にリドワーンが没するとカーディー(法治官)イブン・アル・ハシャーブはニザール派教団員を十字軍諸侯との密通を理由に粛清する。リドワーンの子アルプ・アルスラーンが即位するが、彼は気が狂っておりカーディーが当初進めていたリドワーン派粛清を猛烈に進め、さらに気に入らないものすべてを処刑し始めた。アタベクになった宦官のルウルウはこの狂王を翌年、就寝中に暗殺して廃し、かわって弟スルターン・シャーが即位するが、幼いスルターン・シャーはほとんど名目的な王に過ぎず、アレッポは無政府状態に陥りアンティオキア公国の圧迫を日増しに受けるようになった。 1117年にルウルウが暗殺された時には、シリア・セルジューク朝の支配はほとんど瓦解しており、イブン・アル・ハシャーブらが中心となって急ぎ後継者をどこかから連れてくることにした。やがて選ばれたのは、エルサレム総督アルトゥクの息子で、ジャズィーラ地方のマルディンの町の総督をしているイル・ガーズィーだった。彼はアレッポに入ってリドワーンの娘をめとって政権を受け継いだ。アルトゥク朝がアレッポをこうして手にすることになった。同年、スルターン・シャーは廃位されて幽閉され、シリア・セルジューク朝は完全に消滅した。スルターン・シャーが死に、トゥトゥシュの王統が途絶えたのはそれから少し後の1123年のことである。 イブン・アル・ハシャーブの努力の甲斐なく、アレッポの混乱はこの後も続いた。アルトゥク朝も長続きせず、イブン・アル・ハシャーブは今度はモースル総督アル・ボルソキ(ブルスキ)を連れてきてアレッポをモースルに併合するが、イブン・アル・ハシャーブもアル・ボルソキも暗殺教団に殺され混乱はきわまった。この事態を収拾するのは1128年に至り、かつてトゥトゥシュによって殺害されたアク・スンクルの子で、モースルの総督だったザンギーがアレッポに入った後である。
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