アレクサンドル・ベンケンドルフ (外交官)とは? わかりやすく解説

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アレクサンドル・ベンケンドルフ (外交官)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/19 14:15 UTC 版)

アレクサンドル・コンスタンチーノヴィチ・ベンケンドルフ伯爵

アレクサンドル・コンスタンチーノヴィチ・ベンケンドルフ伯爵: Александр Константинович Бенкендорфアレクサンダー・フィリップ・コンスタンティン・ルートヴィヒ・フォン・ベンケンドルフ; : Graf Alexander Philipp Konstantin Ludwig von Benckendorff1849年8月1日 - 1917年1月11日)は、帝政ロシアの貴族、外交官。日露戦争第一次世界大戦時に駐イギリス大使を務めた。

生涯

コーカサス戦争に参戦したコンスタンチンとルイーゼ・フォン・クロイ公女の長男として生まれた。弟のパーヴェルはニコライ2世侍従長を務め、母方を通じてオーストリアテシェン大公に嫁いだイザベラ大公妃とは再従兄弟に当たる。フランスドイツで教育を受けた後、1869年ロシア外務省に入省し、フィレンツェローマ駐在公館の書記官として勤務した。1871年、宮廷の侍従となり、1876年には外交官を辞めてタンボフ州のソスノフカにある領地を管理した。その間、義弟のパーヴェル・シュヴァーロフ伯爵が設立した王党派の秘密サークルに加入している[1]

1883年、宮廷儀典長に昇進したが、1886年に外交任務に復帰。オーストリア駐在大使館の参事官となった。1897年、駐デンマーク大使に任命。デンマーク駐在時は、ロシア・デンマーク・イギリス王室の姻戚関係により、3カ国の王族が時々コペンハーゲンで会合したため、ヨーロッパの政治動向を観察できる機会を得た。この時の経験に基づいてベンケンドルフは、イギリスとの和解に関する信念を固めた。

1903年、駐イギリス大使に転じて死去するまで在任した。親英派としてベンケンドルフは対英接近を支持し、日露戦争中のドッガーバンク事件に対する収拾や英露協商が妥結する過程で重要な役割を果たした。1907年に成立した英露協商は、近東小アジアで続いてきたグレート・ゲームを終息させる一方、露仏同盟及び英仏協商と共に三国協商の一軸を形成するに至った。また、ベンケンドルフは第二回万国平和会議軍縮議題を正式に提案しており[2]バルカン戦争の戦後処理を交渉したロンドン会議でも主導的に臨み、ニコライ2世から称えられた。第一次世界大戦中、ロシアと西方連合国の間の交渉を扱い、1915年にはイタリアの参戦を確約した秘密協定に署名している。

1917年インフルエンザにより死去[3][4]カトリック教徒だったベンケンドルフの遺体は、毎週礼拝を行ったロンドンウェストミンスター大聖堂に葬られた[5]。ベンケンドルフの死去から2カ月後、ロシア革命が起こりロマノフ朝は崩壊した。

子女

妻のソフィー・シュヴァロヴァ

1879年10月16日サンクトペテルブルクでソフィー・ペトロヴナ・シュヴァロヴァ(Sophie Petrovna Shuvalova、1857–1928)と結婚し、2男1女を儲けた。

  • コンスタンチン・アレクサンドロヴィチ(1880–1959) - 海軍軍人、日露戦争と第一次世界大戦に参戦。マリア・コルチンスカと結婚
  • ピョートル・アレクサンドロヴィチ(1882–1915) - 陸軍軍人・騎兵将校、第一次世界大戦中に東プロイセンで戦死。エレナ・ナルイシキナと結婚
  • ナタリー・ルイーゼ(1886–1968) - ジャスパー・ニコラス・リドレー卿と結婚

長男のコンスタンチンは、ロシア革命後にソ連海軍で服務してからハープ演奏家のマリア・コルチンスカと結婚し、1924年に母親と妹が住んでいるイギリスへ移住した。娘のナタリーは、イギリスの内務大臣を務めたマシュー・ホワイト・リドレー子爵の次男であるジャスパーと結婚し、5人の子供を儲けた。ナタリーの息子であり、ベンケンドルフの外孫に当たるジャスパー・モーリス・リドレー(Jasper Maurice Ridley、1913–1943)は、ハーバート・ヘンリー・アスキス首相の孫娘であるヘレン・ローラ・クレシダ・ボナム=カーター(Helen Laura Cressida Bonham-Carter、1917–1998)と結婚している。

脚注

  1. ^ Marina Soroka, "Britain, Russia and the Road to the First World War: The Fateful Embassy of Count Aleksandr Benckendorff (1903–16)", pp. 25.
  2. ^ A Pearce Higgins, "The Hague Peace Conferences", (Cambridge: Cambridge U.P., 1999), pp. 53–5.
  3. ^ nish@gangbee.com, Nish de silva (2015年10月30日). “The lamplighters of London” (英語). Embassy Network. 2020年8月5日閲覧。
  4. ^ Oxford, John S.; Gill, Douglas (2019-05-23). “A possible European origin of the Spanish influenza and the first attempts to reduce mortality to combat superinfecting bacteria: an opinion from a virologist and a military historian”. Human Vaccines & Immunotherapeutics 15 (9): 2009–2012. doi:10.1080/21645515.2019.1607711. ISSN 2164-5515. PMC 6773402. PMID 31121112. https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC6773402/. 
  5. ^ Mark Langham (2007年12月14日). “Solomon, I Have Surpassed Thee: The Russian in the Crypt”. Westminstercathedral.blogspot.com.br. 2020年2月10日閲覧。

関連項目

外交職
先代
ミハイル・ムラヴィヨフ
駐デンマークロシア大使英語版
1897年 – 1902年
次代
アレクサンドル・イズヴォリスキー
先代
エゴール・スタールロシア語版
駐イギリスロシア大使英語版
1903年 – 1917年
次代
コンスタンチン・ナボコフロシア語版



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