アル・シャバブとヒズブル・イスラムの台頭と衰退
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「ソマリア内戦」の記事における「アル・シャバブとヒズブル・イスラムの台頭と衰退」の解説
詳細は「アル・シャバブ (ソマリア)」を参照 しかし、イスラム法廷会議の残存勢力の内の若手集団は、ソマリア再解放同盟とは別の集団アル・シャバブを結成した。また、これとは別に再解放同盟が穏健派(ジブチ派)と強硬派(エリトリア派)に分裂、エリトリア派は他の3軍閥(ジャブハトゥル・イスラミア、ラスカンボニ旅団、ムアスカー・アノレ)と連合し、ヒズブル・イスラムと名乗った。 アル・シャバブは急速に力を伸ばし、2008年8月には南部の都市キスマヨを占拠、2009年1月にはソマリア暫定議会のあるバイドアを占拠、5月にはジョハールを占拠している。6月には首都モガディシュがアル・シャバブ主導の反政府勢力に包囲され、アフマド大統領によって外国軍の支援を求める声明が出された。 ヒズブル・イスラムはアル・シャバブと良好な関係を保ち、再解放同盟エリトリア派の領袖アウェイス師がヒズブル・イスラムのトップに立つと、アル・シャバブとの統一戦線について発表するなどした。しかし、国内外のイスラム過激派出身で若手強硬派が多いアル・シャバブは思想的に排外性が強く、内戦を生き残ってきた武装勢力の連合であるヒズブル・イスラムとは一枚岩ではなかった。 9月に入り、アル・シャバブが南部の都市キスマヨにおいて、彼らの傘下にないラジオ局を焼き討ちしたことから緊張が高まった。9月下旬、アル・シャバブとヒズブル・イスラムは互いに宣戦を布告した。10月上旬には問題になったキスマヨをめぐる攻防戦が開始され、初期の戦闘で少なくとも15人が死亡したとされている。戦闘は南部各地に飛び火したが、10月中旬に入ると、ヒズブル・イスラムは首都モガディシュの支配圏のうち一部をアル・シャバブへ明け渡し、モガディシュ北部のヒーラーン州へ撤退して勢力と活動の維持をはかった。 しかし、2010年2月、キスマヨの支配権をかけてアル・シャバブと戦闘を繰り広げていたヒズブル・イスラムの軍閥ラスカンボニ旅団の指導者ハッサン・トゥルキーが、突然アル・シャバブに合流した。ラスカンボニ旅団はアル・シャバブ合流派とヒズブル・イスラムに残留派に分裂、残留派はラスカンボニ運動と呼ばれたが、5月に彼らはヒズブル・イスラムを抜け暫定政府に参加した。ラスカンボニ旅団はヒズブル・イスラム内でも再解放同盟エリトリア派についで二番目に大きな勢力だったが、その勢力の大部分が敵にまわり、大きく戦力を削られたヒズブル・イスラムは、これによってさらに追い込まれる形になった。 勢いに乗るアル・シャバブはヒズブル・イスラムの勢力地を次々に攻め落としてソマリア南部の大半を掌握し、12月になってヒズブル・イスラムの議長アウェイスは、戦闘停止とアル・シャバブへの合流を発表した。ただしヒズブル・イスラム以外の支配地域への拡大はゆるやかで、アル・シャバブはソマリア中部ガルガドゥード地域にあったガルムドゥグの大部分を占領していたが、その西のイスラム神秘主義勢力アル・スンナ・ワル・ジャマー(ASWJ、暫定政府に参加)と一進一退の攻撃を繰り広げ、のちガルガドゥード地域をASWJに奪われている。 2011年に入り、ケニア軍がソマリア暫定連邦政府軍と共同することになり、事態は変わった。暫定政府軍となったラスカンボニ運動がジュバランドで政府軍と共同してアル・シャバブを攻撃した。ソマリア南部の軍閥の多くが暫定政府軍に加わることになり、アル・シャバブは弱体化した。4月になってケニアがソマリア南西周縁に「アザニア国」を建設し、5月にはソマリランド北端のアウダル州が独自に政治運動を行った(アウダルランド)。さらに2011年11月には、エチオピア軍が中部ベレドウェインなどに再進出した。2012年にはアル・シャバブの重要拠点キスマヨがソマリア暫定連邦の支配下となった。
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