アルエット熊本
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 02:56 UTC 版)
「日本電信電話公社熊本サッカー部」の記事における「アルエット熊本」の解説
2001年(JFL) 1999年のNTTの持株分社化で、熊本県が西日本電信電話の管轄エリアに入ったことから、NTT西日本熊本フットボールクラブ(呼称はNTT西日本熊本)に改称。1月18日に日本フットボールリーグ(JFL)へ入会を申請し、1月25日に入会が決定した。3月にアルエット(Alouette、フランス語でヒバリ(熊本県の県鳥)の意味)を愛称とすると発表された。リーグ戦は16チーム中で8位。 2002年(JFL) クラブチームに移行して、2月にアルエット熊本フットボールクラブ(呼称はアルエット熊本(Alouette Kumamoto))にチーム名が変更された。成績は18チーム中17位となり、最下位のプロフェソール宮崎FCとともに九州リーグに自動降格。 2003年(九州リーグ) 2003年、JFLへの再昇格を目指したが、沖縄かりゆしフットボールクラブやヴォルカ鹿児島の後塵を拝し、リーグ戦は5位。 2004年(九州リーグ) 「熊本にJリーグチームを」というスローガンを掲げ、熊本県サッカー協会を中心にそれまであまり関心のなかった地元自治体の協力の下、「熊本にJリーグチームを」県民推進運動本部が発足される。なお、当時、実は地元自治体に対してJリーグ参入に向けた協力を依頼したが、内容等に折り合いが付かなかったようで結局断念した、という経緯があった。 その際に立ち上げられるJリーグ参入に向けての新チームの母体として、県内のチームで最も上位リーグに所属していたアルエット熊本が選ばれた。ちなみにアルエット熊本のままでの強化案も出ていたが、“面白みがない”、“新鮮味がない”という理由で却下され、前述の通り「作り直し」を前提とした形での新チーム案が採択された。 県民に関心を持ってもらおうと、地元紙熊本日日新聞の朝刊や夕刊の広告面に大々的に告知され、また、新聞に掲載されたものと同じ内容のポスターが熊本市のアーケード街を中心に貼られていく。これらの宣伝と同時に、同本部のホームページも立ち上げられた。この年、アルエット熊本は着実に力を盛り返し、九州サッカーリーグを4位で終了。全国社会人選手権への参加をもってアルエット熊本としての活動を終えた。 その後、アルエット熊本の選手も含めた新チームのメンバー選考が2度行われ、熊本県出身の選手は選ばれたものの、アルエット熊本の選手は誰一人選ばれなかった。なお、当時選ばれた、アルエット熊本では無い別クラブから移籍してきた選手の中で、過去にアルエット熊本に所属していた経歴を持つ選手は数名ほどいた。 大半の選手は鶴屋百貨店サッカー部などの県内のチームに移籍した。また、唯一採用が検討されていた藤田俊一は練習生として帯同していたが、その間に正式にオファーを出したヴォルカ鹿児島に移籍した。
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