アメリカ連邦議会での活動
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「チャールズ・パーシー」の記事における「アメリカ連邦議会での活動」の解説
パーシーの最初の選挙出馬は1964年のイリノイ州知事選で、民主党の現職オットー・ケルナーに敗北した。2度目の選挙への挑戦は2年後の1966年中間選挙における上院議員選であり、彼は民主党の現職議員ポール・ダグラス(ダグラスはパーシーの母校シカゴ大学の教授であった)を破り当選した。その選挙戦中にパーシーの娘ヴァレリーが自宅で殺害された。選挙戦は2週間中断されたが、その後続けられた。ヴァレリー・パーシーの殺害事件は長い間捜査が行われたが、現在も未解決である。彼は以後1984年に落選するまで上院議員を務めた。 上院では外交、安全保障及び通商問題で頭角を現した。特にパーシーは、長年上院外交委員会において共和党を代表する立場にあった。彼は「ロックフェラー・リパブリカン」と呼ばれる共和党の穏健派に属し、ヴェトナム問題を巡りニクソン大統領と衝突したこともあった。1968年及び1976年には共和党大統領予備選への出馬が取り沙汰されたが、68年にはネルソン・ロックフェラーニューヨーク州知事(当時)を、76年にはジェラルド・フォード大統領(当時)を支持した。 1981年に共和党が上院で多数派となると、パーシーは上院外交委員長に就任した。1981年4月、イラン革命のイスラーム諸国への波及を恐れたレーガン政権は、アラブ穏健派に属する諸国への支援の一環として、サウジアラビアへAWACSを5機売却することを決定した。上院外交委員長として、パーシーはこの決定を強く支持し、ジョージ・H・W・ブッシュ副大統領、下院議員経験のあるジェラルド・フォード元大統領と共に議会工作を指揮した。その結果、この取引は議会の承認を得たが、パーシーはユダヤ系の支持を失った。
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