アメリカ独立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 15:05 UTC 版)
ガバナーズ島こと総督の島(Governor's Island)の要塞化に関する最初の計画は、フランスとの戦争を想定して1741年に作成されたが、決して砦が築かれることはなかった。この島が軍の野営地として最初に使われたのは1755年のフレンチ・インディアン戦争時で、ウィリアム・ペッパーレル士官が第51歩兵連隊を率いてガバナーズ島に上陸した時である。ほどなく別連隊も後に続き 、1760年代半ばにはこの島に砦および複数の土塁を周囲に築く書面作成がなされた。ガバナーズ島の要塞化をより向上させる追加計画は、1766年に英国の軍事技術者ジョン・モントレゾールによって考案されたものである。1774年に英国はこれら要塞化のための資金を要求したが、これらの計画は一切実現しなかった。 アメリカ独立戦争が勃発すると、大陸軍司令官のジョージ・ワシントンはチャールズ・リー少将にニューヨーク港の防衛計画作成を任じた。リーの計画は、ブルックリン、マンハッタンの砲台、そしてガバナーズ島に幾つかの防御砦を要求するものだった。大陸軍将軍のイズラエル・パットナムは1776年4月9日の夜、前年にニューヨーク市から撤退した英国軍の帰還を予見してこの島を来訪、土塁と大砲40基を付け足した。 その後数ヶ月にわたってこの島の防衛力は引き続き改善され、同年7月12日に、ハドソン川をタッパン・ジーまで上ってきた戦列艦HMSフェニックスやHMSローズと交戦した。英国軍はタッパン・ジーまで北上してきたが、植民地側の大砲は英国軍司令官にイースト川進入をためらわせるほどの十分な損害を与えた。またこの砦塁は、ロングアイランドの戦いで英国陸軍が同年8月27日頃にブルックリン・ハイツ奪取を試みた後での、ワシントンによるブルックリンからマンハッタンへの撤退成功に貢献した。 戦略上の誤算だと思われるが、反乱軍の軍需品は下流約3.2kmで待機する英国軍の船に殆どまたは全く損害を与えなかった。英国軍がマンハッタンに退却した2日後、大陸軍はブルックリンおよびガバナーズ島から引き揚げ、英国はガバナーズ島を奪還した。1776年9月2日から14日にかけて、新たな英国駐留兵はマンハッタンにあるジョージ砦正面の砲台にてワシントンの銃での連射を行った。 9月6日、失敗に終わったこの島での米国側タートル潜水艇による破壊工作は、史上初めて記録された潜水艦攻撃となった。この砦は今後の戦争に向けて1783年の撤収の日まで英国軍に占有された。この時期に、英国軍はガバナーズ島の防護を改善し続けていた。
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