その後・派生機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 07:54 UTC 版)
一号機は初飛行当初は操縦者1人乗りであったが、その後翌1912年(明治45年)にファルマン機と同様に後部座席を追加し2人乗り可能に改造された。この改造の際にはほかにも主翼や尾翼、降着装置の設計変更が行われており、改造後の機体は「改造会式一号」や「会式一号(改)」と呼ぶこともある。 会式二号 - 四号機までは、同じく徳川大尉の設計で一号機を改良した飛行機だった。1912年(明治45年)3月に完成した会式二号機は会式一号機の準同型機で、翼間支柱の構造などが一号機と異なる。会式二号機は1912年(大正元年)10月24日(または27日)、徳川大尉の操縦で所沢から代々木練兵場へ飛行し、これは陸軍機による初の「帝都訪問飛行」とされている。ちなみに、アンリ・ファルマン複葉機の当時の姿を撮影したガラス乾板写真(喜多川秀雄が所沢飛行場にて撮影)のうち今日もっとも広く使用されている1枚には、その後方にブレリオ機と並んで会式二号機が写っているものがある。 会式三号機は会式二号機の同型機として完成したが、1913年(大正2年)6月21日に練馬村に墜落する事故を起こして大破。その後の修復の際に、エンジンが会式一号機以来のグノーム製エンジンから、アンザニ製の回転星型6気筒エンジン(60馬力)に換装された。1912年11月に完成した会式四号機は、完成当初からアンザニ製エンジンを搭載している。 会式五号機以降は設計が沢田秀中尉に代わり、輸入機を参考にしつつも日本独自の設計がなされた。最後に製作された七号機は中尉が独自に設計した「会式七号駆逐機」の名で知られ、日本で最初の国産戦闘機となっている。 さらにその後は、制式一号飛行機に始まる「制式」の名称で製作が続けられたが、実戦では輸入機を採用するとの方針が決定され、制式二号飛行機を最後に製作は打ち切られた。
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