その後のXB-42
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/19 10:21 UTC 版)
「XB-42 (航空機)」の記事における「その後のXB-42」の解説
結局、第二次世界大戦後にはレシプロ爆撃機が活躍する場が失われ、XB-42が制式採用されることはなかった。XB-42のうち1機は事故で喪失した。残された1機は改良型XB-42Aに改造された。この機体では、主翼にウェスチングハウス社の 19B-2ターボジェットエンジン2基を主翼下に吊り下げた為、レシプロ・ジェットの混合動力機となった。この改造により最高速度は785km/hにまでアップした。だが1947年に22回目の試験飛行の着陸時に損傷し、修理されずそのまま退役した。 ダグラスではXB-42を純ジェット化したXB-43ジェットマスターを開発し、これはアメリカ合衆国で最初に飛行したジェット爆撃機となった。だが、胴体にジェットエンジンを埋め込むコンセプトはのちのジェット機の主流にはならず、こちらも制式採用されなかった。 戦後最初の戦略爆撃機は、XB-42Aと同様なジェット・レシプロ機のB-36戦略爆撃機であったが、朝鮮戦争時には実戦投入されず1958年に退役する。B-36の退役をもってアメリカ空軍の保有する爆撃機は全てジェット機となる。 なお残されたXB-42Aであるが、1949年に登録抹消され国立航空宇宙博物館で保存されることになり、分解後運搬されるが、主翼部分は輸送中に紛失してしまう。 また、ダグラスはXB-42の設計を低翼に変更し、エンジン位置を移動させて胴体部に最大48席の客席を設けた旅客仕様のDC-8 スカイ・バス(後のジェット旅客機のDC-8との関連はない)を構想して航空会社に売り込んだが、関心を集められず、実現することは無かった。
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