その他の主要な遺構・遺物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/16 14:38 UTC 版)
「吉武高木遺跡」の記事における「その他の主要な遺構・遺物」の解説
112号甕棺墓は副葬品のない墓であるが、この墓の甕棺には鹿の略画が線刻されていた。角のあるものとないものの2頭の鹿が描かれている。鹿は弥生時代の絵画資料にしばしば登場するもので、土器、銅鐸、木製品などに描かれている。抜けては生えかわる鹿の角は稲の稔りと刈り入れを連想させ、鹿の絵には再生が寓意されていたとみられる。 吉武高木遺跡の南東200メートルに位置する吉武H区と呼ばれる墓群から出土した甕棺の一つには、釣針形ないし蕨手文と称すべき文様が浮彫で表されている。甕棺に同様の文様を表したものは吉武H区以外に福岡、佐賀、熊本北部で確認されていることから、何らかの意味をもった文様であることがわかる。悪霊を寄せ付けないための辟邪(へきじゃ)の意味があるとの説もある。 吉武高木遺跡の東方50メートルには大型掘立柱建物の跡がある。柱穴の列は内外二重になっており、外側の柱列は6×5間、内側の柱列は5間×4間となる。ここに建っていた建物については、四周に縁をめぐらせた5×4間の高床式建物とする復元案もあったが、6間×5間の平地式建物とする説もある。6間×5間とした場合の床面積は214.5平方メートルとなり、畳130枚が敷ける広さである。この建物の年代は、出土土器から吉武高木の特定集団墓より新しい弥生中期後半とされているが、腐朽した柱の取り換え時に土器が混入した可能性もあり、特定集団墓の営造と同じ弥生中期前半から建物が存在した可能性もある。 上記大型建物の北200メートルの吉武樋渡(ひわたし)地区には前方後円墳(帆立貝形墳)があった。後円部の径33メートル、前方部長さ7メートルの5世紀代の古墳であったが、近世の墓地建設と近代の土取りで埋葬施設は跡をとどめておらず、当古墳については記録保存にとどめられた。なお、この古墳の下層にも盛土があり、調査の結果、弥生時代中期の墳丘を利用して前方後円墳が築かれていたことがわかった。この弥生墳丘からは甕棺墓30基、木棺墓1基、石棺墓1基が検出され、銅剣や前漢の銅鏡などが出土した。
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