その他の一柳家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/30 07:54 UTC 版)
昭和初期、一柳貞吉や一柳.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}慎(まこと)らは一族の歴史を調査し、祖先顕彰の活動を行った。1930年には直末が戦死した山中城址に石碑を建立して除幕式を行っており、1933年に一族の事績と系譜を記録した私家版の冊子『一柳家史紀要』を編纂している。この『一柳家史紀要』には、系図のほかに「蒐集した資料」が用いられているとされ、各種の名簿等から一柳姓の人物を検出して調査を行っており(調査の結果、血縁上は無関係であったという人物のことも載せている)、系譜関係などを未調査のまま名簿に挙げているものもある。『一柳家史紀要』では、以下の一族を「連家」として記している。 宣高の弟・一柳通方の家は、織田信長から美濃国根尾代官に任じられた。 宣高の二男・一柳通正の末裔からは、大垣藩戸田家に馬術師範として出仕した人物がおり、この家は明治期に「河野」姓に改めた。 宣高の三男・祥斎の末裔は、大坂で帰農し二重新家村(現在の大阪市東淀川区菅原町)の開墾者・地主となった。 直末の婿であった一柳末晴(直末の従弟でもとは稲葉姓)に始まる家は、一柳直好のとき会津藩に仕えた。 『寛政譜』によれば、奥医師の曲直瀬正琳(曲直瀬道三の弟子、養安院)が宣高の子孫であると称している。 このほか『芸藩輯要』(昭和初年に編纂された広島藩の記録)によれば、広島藩浅野家に仕えた一柳家は、宣高の二男「弥三右衛門通定」の末裔とする家伝を有する。通定の嫡孫という一柳弥三右衛門長直が紀州で浅野長晟の家臣となり、のちに御馬廻を務め500石の知行を得た。この家の子孫は大御目付などの職を務めており、家老を務めた人物もいる。
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