小島濤山(こじまとうざん 小島好謙 1761-1831)
小島濤山は、阿波から京都に出て算学や暦学を学び、土御門家に仕えていたが、兄の死によって私塾を受け継ぐことになり、そこで塾生に書と算学を教えた。
文政13年(1830))12月 2日申刻京都市内を中心に烈震があり被害は、死者280人、負傷者1,300人に達した。上下動が激しく土蔵の被害は大きく、なぜか民家の倒壊はほとんどなかったという。小島は地震の後、「地震考」を書いた。この本の中で、地震の本性につて触れ、本震のあと余震があるとしても、大震は続いて起こらないことを地震史の引用で説明し、地震の前兆として、地に孔が多くできて小さい土を吹き出すこと、井戸水が濁ることがある。また、地震後の不安に基づく恐慌はいつの世にも起こり、このことの方が地震の被害よりかえって重大なことがあると説いている。
本書は、小島の弟子の東隴庵主人が師の言葉を書き写したものに、自分の意見を書き加えたものだが、その後半には、「最初の地震は各地が一様に動くのではなく、ある限られたところだけが動き、その範囲は地球全体から見ると小さい範囲である。地震には必ず心があって、ここが激しく振動し、そこから振動が四方に伝わる」、地震の前兆についても、「太陽や月が異常に赤くなることがある。坑道から湯気が昇る、鳥が一度に数千羽も飛び立った」といったことが記述されている。
師弟の詳しいことは不明だが、本書にはこのように地震の本質を捉えた記述が多数あり、日本の地震史に価値の高いものである。
小島の著書には、「仏国暦象弁妄」(文化18年(1818)と「天経或問注釈」がある。
- 小島濤山のページへのリンク