『漢書』との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 09:21 UTC 版)
後漢に編纂された班固の『漢書』は、『史記』の踏襲と批判の上に成り立っており、後世の『史記』評価の原点となった。班彪・班固父子は、『史記』を以下の観点から批判している。 儒教の経・伝に拠りつつも、それ以外の学派に由来する内容を含んでおり、相互矛盾もある。 黄老思想を儒教より優先し、儒教的価値観では批判されるはずの游俠・貨殖を称賛する。 項羽・陳渉を押し上げて、淮南・衡山を退けたこと。 司馬相如は本貫を郡県まで記し、字を記すのに、高祖の功臣である蕭何・曹参・陳平や、同時代人の董仲舒については、本貫の郡県や字を記さないといった不統一がある。 これ以後、『史記』と『漢書』はよく対比されながら論じられることになり、後世の評価に大きな影響を与えた。例えば、蜀漢の譙周は、「史書の編纂は経書にのみ依拠すべきであるのに、『史記』は諸子百家の説を用いた」と非難すると、『古史考』25篇を著し、経典の所説を遵奉して、『史記』の誤謬を正すものとした。劉勰の『文心雕龍』では、女性を本紀に立てたことが非難されている。 三国時代には、『史記』と『漢書』は「史漢」と併称されるようになり、これに『東観漢記』を加えて「三史」と称されることもあった。ただし、旧中国においては、『史記』よりも『漢書』が圧倒的に優勢であり、『隋書』経籍志の記録によれば『漢書』に比べて『史記』の注釈は非常に少ない。
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