『海東諸国紀』における記述とは? わかりやすく解説

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『海東諸国紀』における記述 (抜粋)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/14 23:49 UTC 版)

細川勝氏」の記事における「『海東諸国紀』における記述 (抜粋)」の解説

以下は細川氏および勝氏に関する記述抜粋部分である。適宜補足加えている。 細川殿 居国王殿西世与畠山左武衛相逓為管提源持之死子勝元嗣時未遣使於我勝元山名源教豊[注1]之女[注2]而無子教豊以其幼子[注3]属為養子其後教豊受譴於国王黜居外州其子義安等二人侍国王教豊令二子請還於国二子以其父性悪恐還而起釁不為之請乃令勝元請之勝元為請於国王遂得還以是教豊甚徳勝元及勝元有子[注4]以其所養教豊之子[注3]為僧教豊怒乃与勝元為仇相戦教豊之外孫大内殿[注5]及女壻一色殿[注6]土岐殿等挙兵助之勝元国王天皇於其陣内大小群臣細川者衆焚京都二条以北塹而守之相持今六年勝元四十余矣○又有持賢文明二年庚寅遣使来朝書称細川右馬頭源朝臣持賢持賢乃勝元父持之之弟持賢無子勝元於其家後別室典厩置持賢而師事之年老或云已死○又有細川勝氏勝源従兄弟文明二年庚寅遣使来朝上松那久能登源朝臣頼永遣寿書記来朝時我世祖方議通信日本国王風水険遠欲因諸酋使為使問時在館者則寿於其中稍解事遂命授書与礼物以送于国王又命礼曹書諭大内殿及頼永護送兼致賜物文正元年丙戌五月受命而去庚寅乃来寿言其年六月上松修船行装丁亥二月上松発向国都都中兵起海賊充斥南海路従北海而往四月始到若狄州[倭訓臥可沙]馳報国王国王遣兵迎之然盗賊縦横或従間道留滞備経艱苦六十日而得達国都致書与礼物国王館于東福寺国王方在細川殿陣中山名殿相持未暇修答至戊子二月答書国王更議不可無答使又命勝氏備方物遣使勝氏為書遣心苑東堂等与寿偕来寿又言大内処書与賜物使人伝送海賊所掠其所言多浮浪不可尽信 注: 本文中の「教豊」は山名教豊のことを言っているのであろうが、一部で父・山名持豊(宗全)と混同していると思われる記述見られる細川勝元娶った山名宗全養女山名熙貴の娘)のこと。 細川勝元初めに養子としていた山名宗全の子豊久のことであろう細川勝元実子細川政元後述されている通り、政元が生まれると、養子豊久仏門押し込まれ(僧にされ)た。 大内政弘のこと。実際には教豊ではなく宗全の外孫である。 教豊の娘婿一色義春を指す。直後の「土岐殿」は同じく一色氏出身者である土岐成頼とみられる。 (原文およびその他の記述等は、『海東諸国紀全文テキストデータベースを参照いただきたい。) この項目は、日本の歴史関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者求めています(P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。

※この「『海東諸国紀』における記述 (抜粋)」の解説は、「細川勝氏」の解説の一部です。
「『海東諸国紀』における記述 (抜粋)」を含む「細川勝氏」の記事については、「細川勝氏」の概要を参照ください。

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