『南史』「宝誌伝」
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時に沙門で宝誌という者がいた。何処から来たのか不明である。南朝宋の泰始年間(465年 - 471年)に、鍾山に出入りし、建康ら都邑に出没するようになった。その当時、既に五・六十歳位の年輩に見えた。南朝宋・斉の間に、稍々霊跡を顕し、被髪徒跣して、言動が常ならぬ状態になった。或いは、僧が着ることを禁じられている錦袍を着用し、飲食は凡俗と同じであった。また、恒に銅鏡・剪刀・毛抜きなどを錫杖の頭に掛けて走り回ったりした。或いは酒肴を捜し求めたり、或いは数日の間、食べないこともあった。未来のことを預言し、人の心中を言い立てたりした。一日のうちに別の所に分身して現れたこともあった。 南朝斉の武帝は、宝誌が人民を惑わすのを怒り、建康の獄に収監した。すると、ある日、皆が街中で宝誌を見かける、という事態が発生した。すぐに調査した所、宝誌は獄中に居た。その夜、また宝誌が獄吏に語るには「門外に両輿の食あり。金鉢に飯を盛る。汝は、それを取ってこい」と言った。果たして、文恵太子と竟陵王とが供養を届けに来る所であった。県令の呂文顕が、そのことを武帝に報告した所、武帝は華林園に迎え入れた。しばらくすると、宝誌は三布帽を重ねて被り、現れた。その時は、何の事か分からなかったが、俄かに武帝が崩御し、文恵太子と豫章文献王蕭嶷が相い継いで薨った。人々は、宝誌の三布帽は、その3人の死を予兆したものと噂しあった。 南朝梁の武帝は宝誌を尊崇し、嘗て朝代の遠近を問うた。宝誌の答えは「元嘉元嘉」というものであった。帝は喜び、南朝宋の文帝の治世である元嘉年間の倍の治世が予言されたと解釈した。宝誌は剃髪しているにもかかわらず常に帽子を被っており、俗に誌公と呼ばれていた。好んで予言を行い、それがいわゆる誌公符として残っている。高麗も宝誌のことを伝え聞き、使者を派遣して綿帽を齎して供養した。 天監13年(514年)に卒した。将に死なんとする時、突然に寺の金剛像を担いで戸外に置き、「菩薩まさに去るべし」と語り、十日後に亡くなった。その先に琅邪の王筠は荘厳寺に行き、宝誌に出会い、歓談し飲食した。誌が亡くなると、勅命によって王筠が碑文を製った。
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