『南史』「宝誌伝」とは? わかりやすく解説

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『南史』「宝誌伝」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 09:51 UTC 版)

宝誌」の記事における「『南史』「宝誌伝」」の解説

時に沙門宝誌という者がいた。何処から来たのか不明である。南朝宋泰始年間465年 - 471年)に、鍾山出入りし建康都邑出没するようになった。その当時、既に五・六十歳位の年輩見えた南朝宋・斉の間に、稍々霊跡顕し被髪徒跣して、言動常ならぬ状態になった或いは、僧が着ることを禁じられている錦袍着用し飲食凡俗と同じであったまた、恒に銅鏡剪刀毛抜きなどを錫杖の頭に掛けて走り回ったりした。或いは酒肴を捜し求めたり或いは数日の間、食べないこともあった。未来のことを預言し、人の心中言い立てたりした。一日のうちに別の所に分身して現れたこともあった。 南朝斉の武帝は、宝誌人民惑わすのを怒り建康の獄に収監した。すると、ある日、皆が街中宝誌見かけるという事態が発生した。すぐに調査した所、宝誌獄中居たその夜、また宝誌獄吏に語るには「門外に両輿の食あり。金鉢に飯を盛る。汝は、それを取ってこい」と言った果たして、文恵太子と竟陵王とが供養届けに来る所であった県令呂文顕が、そのこと武帝報告した所、武帝林園迎え入れた。しばらくすると、宝誌三布帽を重ねて被り現れた。その時は、何の事か分からなかったが、俄かに武帝崩御し、文恵太子と豫章文献嶷が相い継いでった。人々は、宝誌三布帽は、その3人の死を予兆したもの噂しあった。 南朝梁武帝宝誌尊崇し、嘗て朝代遠近を問うた。宝誌答えは「元嘉元嘉」というものであった。帝は喜び南朝宋文帝治世である元嘉年間の倍の治世予言されたと解釈した宝誌剃髪しているにもかかわらず常に帽子被っており、俗に誌公呼ばれていた。好んで予言行い、それがいわゆる誌公符として残っている。高麗宝誌のことを伝え聞き使者派遣して綿帽を齎して供養した。 天監13年514年)に卒した。将になんとする時、突然に寺の金剛像を担いで戸外に置き、「菩薩まさに去るべし」と語り十日後に亡くなったその先琅邪王筠荘厳寺行き宝誌出会い歓談し飲食した。誌が亡くなると、勅命によって王筠碑文を製った。

※この「『南史』「宝誌伝」」の解説は、「宝誌」の解説の一部です。
「『南史』「宝誌伝」」を含む「宝誌」の記事については、「宝誌」の概要を参照ください。

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