「雑記帳」
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「生命の藝術」の編集をやめ、1936年10月、雑誌「雑記帳」を自分で編集して創刊する。資金は、彬の助力でまかなわれた。初版5千部で始めたがほとんど売れず、初版3千部まで縮小させるも資金的に維持できなくなり、「雑記帳」は1937年12月号、通巻14号で終了した。「雑記帳」には、無名の文人・画家ばかりでなく、現在でも著名な者も多数寄稿した。文人では、亀井勝一郎、佐藤春夫、瀧口修造、萩原朔太郎、室生犀星、三好達治、保田與重郎ら、画家では、池袋モンパルナスのグループの他には、里見勝蔵、東郷青児、藤田嗣治、安井曾太郎らが寄稿したり、絵を寄せている。一方、1937年4月には第1子が誕生したが、早産だったため翌日に亡くなった。 1939年初め、故郷の人などの好意で後援会ができ、絵を売るための画会ができた。東郷青児や北川民次が推薦文を書いてくれたが、絵はあまり売れなかった。代わりに、故郷の友人達が世話してくれた、グラフ雑誌のカットの仕事や、美容院・喫茶店・カフェーの壁画の仕事で生計を立てた。 1939年7月、長男の莞(かん)が生まれた。1940年夏、二科展で特待を受ける。同年10月、初の個展を開いた(銀座の日動画廊で3日間)。この個展には、「夕方」(1939年11月、油彩・板、53.2×72.9cm、個人蔵)、「茶の風景」(1940年3月、油彩・キャンヴァス、50.0×73.0cm、岩手県立美術館蔵)、「青の風景」(1940年、油彩・キャンヴァスボード、23.5×33.0cm、大川美術館蔵)、「落合風景」、「お濠端」(1940年7月、油彩・キャンヴァス、65.0×90.0cm、横須賀美術館蔵)、「黒い花」など30点を出品した。
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