「気楽流」の流祖と飯塚臥龍斎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 03:50 UTC 版)
「気楽流」の記事における「「気楽流」の流祖と飯塚臥龍斎」の解説
『上毛剣術史』によれば、気楽流流祖は渡辺杢右衛門とされる。ただし異伝もあり、飯塚系の多くは絹川久右衛門を、児島系は飯塚臥龍斎を流祖とするなど、飯塚臥龍斎・絹川久右衛門(気楽斎)・蛭川菊右衛門の3名が「流祖(中興の祖)」として錯綜している。 『武芸流派大事典』では9代目の絹川久右衛門芳重が気楽流と改めたと伝えるが、『多野郡誌』・『新町町誌 通史編』・『境町史 民俗編』では臥龍斎が改めたという。 『新町町誌 通史編』によれば、臥龍斎は戸田流であり、これを「気楽流」と称したきっかけは、文化11年(1807年)に真之神道流との間に門弟同士の刃傷事件が起こってしまい、その結果臥龍斎が新町宿を追放され戸田流を名乗るのを禁じられたからであるという。 『上毛剣術史 下』では荒木流との諍いであったと推定している。 この喧嘩「新町騒動」により、臥龍斎は捕縛され、幕府領であった中山道新町宿を管轄とする岩鼻陣屋(関東郡代の廃止後、文化2年(1805年)関東取締出役の設置以降)で代官の取調べを受け所払いとなったとされる。 一方、気楽流伝書では、臥龍斎は追放されたのちに臥龍斎の技量を惜しんだ旗本跡部氏の前で縄抜の術を披露して追放を赦され、跡部家の柔術師範となったと伝え、また当時既に「気楽流」であったとし追放で名乗りを禁止されたが、この赦免によってその禁止が解かれたとする しかしながら、直参旗本である跡部家出身者が幕府領の岩鼻代官(下級武士の足軽分)となったことはなく、また老中水野忠邦の実弟である跡部良弼は、天保以降、大阪奉行、江戸北町、南町奉行や勘定奉行、老中といった要職を幕末に務めてはいるが、年代的に臥龍斎の赦免追放ができるものではない点で、重大な歴史誤認があること、さらには 江戸時代、徳川幕府の統治時代を通じ、”赦し”は、将軍の専管事項であったことなどから、本伝承には疑問が持たれる。
※この「「気楽流」の流祖と飯塚臥龍斎」の解説は、「気楽流」の解説の一部です。
「「気楽流」の流祖と飯塚臥龍斎」を含む「気楽流」の記事については、「気楽流」の概要を参照ください。
- 「気楽流」の流祖と飯塚臥龍斎のページへのリンク