「気楽流」始祖
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 03:50 UTC 版)
気楽流の始祖は諸説伝わり、戸田越後守(富田越後守)・上泉伊勢守・水橋隼人の3名がみえる。水橋隼人説は気楽流との関係は不明。この説は菅沼系に伝わるもので、戸田越後守の3代前に水橋があり、戸田(富田)流の伝承と内容が重複している。『上毛剣術史』にて飯嶌は、上泉伊勢守説は飯塚臥龍斎が学んだ新陰流から遡ったとして始祖は戸田越後守とするが、彼はあくまで戸田流の始祖としている。 上述の戸田越後守に関しては、富田流の富田越後守重政と同一人物説・別人説がある。飯塚家の伝承が書かれた飯塚臥龍斎頌徳碑(群馬県甘楽町)には、戸田越後を元長尾氏旧臣で箕輪に仕えた戸田八郎高安が戸田流祖とする。高安はのち飯塚姓と改め11代後の子孫が臥龍斎だとしている。そして飯塚系の巻物では、戸田越後守綱義とあり、前名を新八郎一利、越後国頸城郡戸田村出身とする。菅沼系は水橋隼人の子孫に戸田を置き、名を越後守秀雄とする。児島系は戸田越後守信正とし富田ともいったとする。飯嶌は富田重政と戸田越後を同一人物説をとる。 戸田を祖と伝える系統でも初期は戸田越後守・上泉伊勢守・引田文五郎の3名が入り乱れている。飯嶌の説によれば、これは流祖を神格化するため上泉や引田を配したとされ、この次に新藤雲斎が共通してきているため、戸田の後は新藤とみなしている。一方、『上毛剣術史』で諸田政治は、『皇国英名録』の説を採用し、気楽流祖は上泉・疋田・戸田の順であるとし、上泉伊勢守の流れを当初から汲んだとする。 新藤のあとの1・2代は戸田内記・戸田隼人・土屋将監の名が入り乱れるが、その次は渡辺杢右衛門で統一されている。大勢がそれに続いて金沢新五兵衛、渡辺兵右衛門、絹川久右衛門芳重、蛭川菊右衛門とし11代飯塚臥龍斎興義に至っているが、一部異なる伝承もある。
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