「新しい文化地理学」に対する批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 08:27 UTC 版)
「文化地理学」の記事における「「新しい文化地理学」に対する批判」の解説
新しい文化地理学に対する批判は、新しい文化地理学が①言語論的や記号論的なものに傾倒し、政治的、物質的なものを軽視している、②方法論的な厳密性を欠くゆえ「何でもあり」の分野になっている、③ポスト構造主義的な、尊大で排他的なジャーゴンを濫用している、④「流行としての理論」が現実に先行し、実証的データをうわべを取りつくろうだけの貧弱なものとして扱っている、⑤統合的な理論を打ち立てる可能性を放棄し、世界を相対主義的で、表層的な理論しか有しない事例研究の集合体に変えてしまった、という5つの批判に集約することができる。 リチャード・ピート(英語版)は、言語に依存して景観を解読するダンカンの手法は、表象の外にある、人々が自身の世界を再創造する物質的なプロセスを抽象化してしまうと論じた。また、ドン・ミッチェルは新しい文化地理学がなおも「文化」を物象化していることを批判した。ミッチェルは、文化という概念は実態のないまやかしの存在であり、特定の権力闘争の勝者により作り上げられた、差異、社会秩序、権力関係を説明する手段としての「文化の観念」があるだけであると論じた。 これに対し、コスグローヴは、新しい文化地理学が文化に存在論的価値を与えようとしたことはなく、新しい文化地理学者の研究はミッチェルのそれと足並みの揃ったものだと主張する。また、彼は文化というメタファーがいかなる下部構造に基づいているかを明らかにしようとするミッチェルの論説を「隠喩は修辞学的な仕掛けでしかない」と退けた。また、ジャクソンはミッチェルの「文化は説明されるものであり説明の手段ではない」という論点について合意すると同時に、彼が文化の物質性と制度性を軽視することを問題視する。ジャクソンはこの議論に際して、言語や表象だけで政治学を語る「徹底的につまらない文化地理学を生産する危険性」を回避するために、物質世界への視点の重要性を指摘した。
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