「徳」と「知識」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/22 06:08 UTC 版)
「メノン (対話篇)」の記事における「「徳」と「知識」」の解説
本篇では、「徳」は「教えられるもの」ではなく、それゆえに「知識」でもなく、「神によって与えられている、正しい「思いなし」(思惑)」であると結論付けられる。これは一見、「徳」を知的に探求しているソクラテスの態度や、『プロタゴラス』等に見られる「徳は知識である」という命題と、矛盾するようにも見える。しかし、本篇における、「「徳」は「教えられるもの」ではなく、それゆえに「知識」でもない」という考えは、あくまでも、 「これまでの政治家やソフィスト達を検討した限りでは」 という条件付きの話であると同時に、前段における「徳は教えられる(知識である)」という仮定から出発する仮設法的議論による証明に対する疑問・反証から、否定的に導かれた暫定的結論であり、この結論自体がまだ1つの「思いなし」(思惑)であり、改善の余地があるものであることが、全篇を通して示唆されている。 そして、そのことは、末尾でソクラテスが、「他者に徳を教えることができる者」が出現する可能性を示唆したり、「徳それ自体がそもそも何であるか」を手がけない限りはこうした問題は明確になることはないことに言及していることで、確認される。 更に、『ソクラテスの弁明』や『ゴルギアス』等の記述も併せて鑑みれば、まさにソクラテスただ一人のみが、そうした事柄に取り組んでいたのだということが、露わになる。 また、過去のアテナイの著名な政治家など、「優れた人物」とされている人々は、「知識」を持ち合わせているのではなく、一種の「神がかり」としてその業績を成したに過ぎないとするくだりは、『イオン』における詩人批判と共通するモチーフであり、『ソクラテスの弁明』の「無知の知」のくだりにおける政治家・詩人批判を補強する内容となっている。
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