「安室奈美恵 with SUPER MONKEY'S」時代(1994年7月 - 1996年9月)
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名実共に安室メインの体制となり、1994年7月にリリースした「PARADISE TRAIN」以降は単独でボーカルを務めた。翌8月より、日本テレビ系『夜もヒッパレ一生けんめい』に準レギュラーとして出演するようになる。 同年10月、新垣が沖縄アクターズスクールの講師となるためグループを脱退。新垣と入れ替わる形で松田律子(後のLina)、安室の同級生で同じ中学校に通っていた宮内玲奈(後のReina)が加入し、デビュー時以来の5人体制となる。 1995年1月、MAX松浦プロデュースによるシングル「TRY ME 〜私を信じて〜」をリリース。ユーロビートのカバーでもある同曲は、初登場の49位からじわじわと上昇し、初のオリコンチャートTOP10入りを果たすと同時に累計でも70万枚を超える大ヒットとなった。その後も同路線で立て続けにヒットを生み出す。 同年4月から日本テレビ系音楽バラエティ『THE夜もヒッパレ』にレギュラー出演。同時に安室を除く4人がMAXとして活動を開始する。 但し、MAXのCDデビューや安室のavex移籍後も、安室のシングル「Body Feels EXIT」、「Chase the Chance」ではバックダンサーとして4人が参加しているほか、ライブもグループ名義で行われており、5人での活動は継続された。 1995年12月、初の沖縄凱旋ライブを沖縄コンベンションセンターで行い、4000人を動員。念願の地元での初公演だったこともあり、アンコールの際のMCではメンバー全員が感極まり涙を見せた。 1996年3月~5月にかけ、日本武道館・大阪城ホール公演を含む初の全国ツアー「mistio presents AMURO NAMIE with SUPER MONKEY'S TOUR '96」を開催(ホール21公演)。 この時期になると、安室の一大ブームやMAXのブレイクなどから別々での活動が目立つようになり、テレビで5人が揃うことが徐々に減少していく。 同年8月~9月にかけ、野外ライブ「SUMMER PRESENTS '96 AMURO NAMIE with SUPER MONKEY'S」を開催。最終日である9月1日の千葉マリンスタジアム公演を最後にグループとしての活動を休止し、以後それぞれの活動に専念する。 1997年9月に一度「スーパーモンキーズ再結成」という記事のもと、年明けからの5人での活動再開が検討されるが、安室の結婚・産休やMAXの多忙も重なり立ち消えとなった。また、2000年に放送されたテレビ番組の中で安室が「またMAXの皆と同じステージがしたい」と語ったが、5人でのステージも1997年放送の「THE夜もヒッパレ」を最後に実現されていない。 その後の活動については安室奈美恵、MAXを参照のこと。
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