「安内攘外」と「和協外交」
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「日中戦争」の記事における「「安内攘外」と「和協外交」」の解説
1931年(昭和6年)9月18日の柳条湖事件に端を発する満洲事変は、1932年(昭和7年)3月1日の満洲国の樹立を経て、熱河作戦終結時の1933年(昭和8年)5月31日に締結された塘沽協定により一応終結した。同協定で、長城線以南に非武装地帯が設定され、大日本帝国は北支五省の独立自治運動の拠点を獲得し、満洲国は中華民国により黙認された。国民党は、汪兆銘の両国の関係改善の希望もあり、先ず共産党に対する囲剿戦に全力を傾け、国内を統一してから日本と戦う「安内攘外」を基本方針に採用した。広田弘毅外相は「和協外交」を提唱し、排日・排日貨運動も沈静化し、両国は公使館を大使館に昇格させた。
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