「原典版」の完成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 12:28 UTC 版)
ヴェルディは1861年11月末頃にオーケストレーションを除いてほぼ全体を完成(ティート・リコルディ宛11月22日付書簡による)、初演の監督のため、ヴェルディは12月に妻ジュゼッピーナを伴い、厳寒のサンクトペテルブルクへと旅立った。ジュゼッピーナは事前に大量のイタリア産ワイン、パスタ、チーズ、サラミを買い付け、現地に発送していたという。 ヴェルディは現地で精力的にリハーサル(並行して細部の手直し、オーケストレーション)を行ったが、レオノーラ役予定のソプラノ、ラ・グルア(Emmy La Grua)の発声障害によりこのシーズンでの初演を断念(ヴェルディは演奏家の質に妥協を許さない性格だった)、帰国することになった。帰路ヴェルディはロンドンに立ち寄り、折からの万国博覧会のための委嘱作品『諸国民の賛歌』(Inno delle Nazioni )を完成させて初演している(これも本来は独唱者としてタンベルリックを念頭において書かれたものだが、契約上の理由から初演時はテノールのパートをソプラノ用に書き直している)。 ヴェルディはイタリアに戻っても細部の手直しを継続して、いよいよ全曲を完成、1862年9月、再びサンクトペテルブルクを訪れ初演の準備を開始したのだった。初演の延期は歓迎されざる出来事であったが、その延期により結果的にオーケストレーションの十分な検討時間が得られたことはむしろ幸運だったかもしれない。なお問題のソプラノ・パートはカロリーヌ・ドゥヴリ・バルボ(Caroline Barbot)に差し替えられた。
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