「ヤサ」の用法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/12 00:35 UTC 版)
モンゴル帝国期の諸史料では「ヤサにいたらしめる」「ヤサにかける」といった表現が頻出し、これが直接「処刑する」といった意味となる。ペルシア語史料では به یاسا رسانیدان (ba-yāsā rasānīdan)、大元ウルスのモンゴル語直訳体漢文では「依着札撒教死者」「教札撒裏入去」「依著札撒裏入去」「依著札撒行了者」「交札撒裏入去者」といった表現がされていた。これらは皆モンゴル語J̌asaq-iyar yabu'ul=u=nを直訳したものである。 しかし、「ヤサにかける」といった熟語が頻繁に用いられる割には「ヤサ」の具体的な内容・条文を記した書籍は殆ど無く、唯一ジュヴァイニーの『世界征服者史』のみがヤサに関する纏まった記述を残している。『世界征服者史』では「ヤサ」について以下のように説明している: 自身の道理に従い応じて、事ごとに律例を、案件ごとに條格を制定し、罪過ごとに断例を明白にした。タタルの諸部族には文字が存在していなかったので、「ウイグル人たちにモンゴルの子供達は文字を学べ。もろもろのジャサク・宣勅は紙巻に抄写せよ。それらを『大ヤサ書』と称せよ」と命じた。かくて、宗王たちの府庫に蔵した。カンが即位する、大軍(禁軍)が出陣する、或いは宗王たちがクリルタイ(集会)をなし国益・その最初の措置について合議するといった際には毎度、それらの巻物を取り出してもろもろの事をそれに照依して定め、諸軍の配置や各田地・諸城子の殲滅をその方法に依拠して学ぶ。 — 『世界征服者史』「[チンギス・カン]台頭の後に制定したもろもろの体例・発令したもろもろのヤサの頒」 この記述によると「ヤサ」は法令として用いられたのみならず、書き写されて諸王家に配られ、クリルタイ(集会)の時毎に依拠すべき基準として参照されていた。実際に、大元ウルスの漢文史料では集会ごとに「祖訓・伝国の大典」「太祖金匱宝訓」が朗読されていたことが記録されている。ただし、この「大典」はヤサのみならずビリク(訓言)、ジャルリグ(聖旨)をも含むものであり、「ヤサ」の実態を分かりにくくする一因となっている。 モンゴルの征服地域、特にイスラーム教の勢力圏ではしばしば「ヤサ」とイスラーム法が対立することが問題となった。特に家畜の屠殺方法については両者は全く異なる内容であり、問題となったことが記録されている。
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